シャルル・ド・ブロワ捕獲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 07:53 UTC 版)
「ブルターニュ継承戦争」の記事における「シャルル・ド・ブロワ捕獲」の解説
1345年3月にジャン・ド・モンフォールは監視を逃れてイングランドに逃亡した。エドワード3世は1345年夏にフランスとの戦争を再開し、アキテーヌに兵を送ると共に、ブルターニュにもノーサンプトン伯とジャン・ド・モンフォールを送った。ジャン・ド・モンフォールはカンペールの奪回を図ったが失敗し、間もなく病死した。これにより、わずか5歳のジャン4世が跡を継いだ。母ジャンヌは精神異常の兆候を示しており、モンフォール派は実質的にロンドンからの指令を受けたブレストのイングランド守備隊によって支えられている状況だった。 ノーサンプトン伯はパンティエーヴル伯領のブルターニュ北岸に侵攻したが、ラ・ロッシュ=デリアンを獲得したに留まった。1346年になるとエドワード3世はノルマンディに侵攻したため、フランス軍の主力はノルマンディに移動した。ノーサンプトン伯も副隊長のトーマス・ダグワースに託してエドワード3世に加わっている(8月26日にクレシーの戦い)。6月20日にダグワースのイングランド軍とシャルル・ド・ブロワの間で起きたラ・ロッシュ=デリアンの戦いでシャルル・ド・ブロワは敗北し、捕虜となった。
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