シャルルロワの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 01:17 UTC 版)
フランス第5軍は、ドイツ軍と相対する前に「ナミュールまで前進してベルギー軍を援護せよ」、「アルデンヌ方面に進出してフランス第3軍の側面を援護せよ」との両立が難しい命令をジョフルから受けており、第5軍司令官のシャルル・ランレザック(英語版)将軍はこの実現に苦慮していた。命令を実現するには、第5軍がそっくりもう一個必要だったからである。結局、ランレザック将軍はアルデンヌ方面の援護をほぼ諦め、第5軍をナミュールの西方20kmにあるシャルルロワに布陣させた。 ベルギー軍はナミュールに布陣した第4師団を除き、アルベール国王の命令によりアントワープまで後退していた。このため、軍のいなくなったブリュッセルは8月20日にドイツ軍に占領された。また、この日ナミュールで持ち堪えていたベルギー第4師団に対し、ドイツ軍はディッケ・ベルタとシュコダ30.5cm臼砲による砲撃を加え始めた。また、ドイツ第2軍はナミュールの攻防戦を無視する形で西に進撃し、8月22日、シャルルロワに布陣するフランス第5軍と衝突した。フランス軍とドイツ軍は、銃剣突撃を砲撃で粉砕するということを互いに繰り返す消耗戦に陥ったが、ドイツ軍には第3軍が応援に駆け付け、フランス第5軍は劣勢になった。8月23日になると、ランレザック将軍の元にベルギー第4師団は限界に達したためナミュールを放棄して撤退を開始した旨の報告が入った。また、アルデンヌ方面でフランス軍が撃退されたとの報告も入り、第5軍の側面が脅かされつつあることが分かった。この為、フランス第5軍はドイツ軍との正面戦闘を切り上げ、撤退に入る。
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