ザ・クライン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/07 10:17 UTC 版)
「パッツィー・クライン」の記事における「ザ・クライン」の解説
彼女は少年と見間違われるような外見を洗練させた。これにより、オープリーの近所の著名なトゥッツィーズ・オーキッド・ラウンジで付き合いのあったロジャー・ミラー、ハンク・コクラン、ファロン・ヤング、ファーリン・ハスキー、ハーラン・ハワード、カール・パーキンスなどの男性アーティストと親しくなった。1986年のドキュメンタリー『The Real Patsy Cline 』で歌手ジョージ・リドルは「彼女はビールを飲んだり冗談を言ったりして、男性の冗談にも不快な顔をしなかった。なぜなら彼女の冗談の方がきつかったからだ。私が覚えている限りでは彼女はとても活発だった」と語った。 彼女は男女に関わらず友人のことは「Hoss」と呼び、自分のことは「ザ・クライン」と称した。1962年、セント・ジュード小児研究病院の募金イベントでエルヴィス・プレスリーと出会い、電話番号を交換した。彼が珍しくオープリーに出演したのを見て、彼女は彼を称賛し「The Big Hoss」と呼び、以降ザ・ジョーダネアーズと共にバック・コーラスとして彼のレコーディングに参加するようになった。 この頃、自身でキャリアをコントロールするようになり、言葉の上でも仕事の面でもどの男性にも反抗的になった。当時興行主がコンサートが終わると契約通りの金額を払わないことがあったが、彼女は「金がないなら舞台に立たない」として公演前に出演料を請求し、これが現在の慣例となった。『The Real Patsy Cline 』の中で友人のロイ・ドラスキーは「あるコンサートの前、出演料が支払われなかった。出演料が出ないから演奏しませんなんて、誰が観客に言うのかと話し合っていた。すると彼女は「私が言うわ」と言って実際に言ったんだ」と語った。友人のドッティ・ウエストは25年後のインタビューで「「ザ・クライン」をあなどってはいけないと街中誰もが知っていたわ」と語った。
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