サードアルバム〜2度目の全英チャート第1位獲得(1994年 - 1995年)
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サードアルバムのレコーディングを終えたバンドは、1994年1月24日に8thシングル「キャント・ゲット・アウト・オブ・ベッド」をリリース(全英24位)。3月7日には、9thシングル「イージー・ライフ(原題:I Never Want an Easy Life If Me and He Were Ever to Get There)」(全英32位)を1週間の期間限定でリリースし、3月21日にサードアルバム『アップ・トゥ・アワ・ヒップス』を発表。全英チャートで8位にランクインし、アルバムチャートで再びトップテンに返り咲いた。アルバムのプロデューサーは、ゴング、システム7のスティーヴ・ヒレッジ。ベース音が幅を利かせた、全体的にヘヴィな音に仕上がっている。また前述の通り、ロブのレコーディングに制限があったため、数曲を除きオルガンその他のキーボード音は控えめである。このアルバムについて特筆すべきことは、雰囲気・サウンドを重視するそれまでの曲作りから「キャント・ゲット・アウト・オブ・ベッド」のような「歌」そのものを意識した曲作りに傾倒していった点だ。これは、その後のバンドの音楽的方向性を決める大きなターニングポイントとなる。そして同年6月20日に、B面の収録曲が異なる2バージョンの「ジーザス・ヘアドゥ」(全英46位)をリリースし、12月28日には収録曲全曲が新曲の「クラッシン・イン」(全英31位)を発表した。 1995年前半は4thアルバムのレコーディングに専念。当初はサードアルバムと同じスティーヴ・ヒレッジのプロデュースでレコーディングが進められていた。しかしヒレッジは、シャーラタンズのアルバムだけでなく、他のアーティストのレコーディングプロジェクトにも関与していて、シャーラタンズのレコーディングへの参加を一時中断しなければならない状況があった。メンバーはそのことを不満に思い、また4thアルバムの最終ミックスバージョン(8バージョンあった)をどれも気に入らなかったため、アルバム完成前にヒレッジを解雇した。その後、メンバー自身とエンジニアのデイヴ・チャールズの共同プロデュースで4thアルバムのレコーディングを続ける。同年5月8日、両A面シングル「ジャスト・ルッキン / ブレット・カムズ」(全英32位)をリリースし、グラストンベリー・フェスティバル、フェニックス・フェスティバルなどへのライブ出演を経て、8月7日に13thシングル「ジャスト・ホウェン・ユーアー・シンキン・シングス・オーヴァー」(全英12位)をリリース。追って8月28日にリリースされた4thアルバム『ザ・シャーラタンズ』は全英チャートで堂々の第1位を獲得した。メンバー本人たちは、このアルバムにかなりの自信を持っていたようで、このことはアルバム名がセルフタイトルであることからもよく分かる。その後、秋の全米、全英ツアーを経て、11月下旬から12月上旬に3度目の来日公演を行った。
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