サムスンへの航行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 17:50 UTC 版)
「ムスタファ・ケマルのサムスン上陸」の記事における「サムスンへの航行」の解説
1919年5月15日の会談後、ムスタファ・ケマル・パシャのために準備され、彼をサムスンに運ぶことになるバンドゥルマ号の船長イスマイル・ハック・ベイ(トルコ語版)を職務室に呼ばせ、旅程に関する情報を得るとともに、翌日の正午頃に出航することを伝えた。出航当日、バンドゥルマはスィルケジ駅の沖でイギリス人により臨検を受けた。ムスタファ・ケマル・パシャは、内火艇でベシクタシュ埠頭(トルコ語版)をはなれ、乙女の塔(英語版)沖で乗船した。出航前にヒュセイン・ラウフ・ベイはムスタファ・ケマル・パシャに、進駐軍の魚雷艇に追跡されて沈没させられる可能性があるという情報を得たことを明らかにしたが、航行は計画通りに行われた。バンドゥルマ号はムスタファ・ケマル・パシャと18人の軍人を乗せ、1919年5月16日正午ごろイスタンブールからサムスンに向けて出航した。ヒュセイン・ラウフ・ベイが言及したイギリス船は、バンドゥルマ号を追跡しはじめたものの、黒海へ出た後、嵐のなかで見失った。ムスタファ・ケマル・パシャは、船長イスマイル・ハック・ベイに対し、陸に近い航路を航行すること、敵の攻撃があれば船を最寄りの海岸に接岸させることを命令した。厳しい気候のもと荒れた海を航行するバンドゥルマ号は、5月17日の夜23時ごろにイネボル港に入港し、翌日の5月18日の正午ごろスィノプ港に接岸した。ヒクメット・ベイ中尉は、短艇で上陸し航行中であることをサムスンの第15師団司令部に電報で報告した。そしてバンドゥルマ号は、この電報の翌日、1919年5月19日にサムスンに到着した。
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