サムスンとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:18 UTC 版)
1970年頃にサムスンは商社から電器産業に進出したが半導体の開発で行き詰まっていた当時、日韓定期閣僚会議が始まって日韓提携の気運があった。日本電気の小林宏治が「韓国は技術を盗んでいく」と警戒感を持っていたのに困ったサムスンの李健熙は佐々木に説得を頼み、駐日大韓民国大使と小林、佐々木とで食事する機会をセッティングしてもらった。その後に佐々木以外の3人でゴルフに行き、そこで小林は機嫌を直したという。これがきっかけで、李は佐々木を頼るようになり、シャープとサムスンは4ビットマイコンの製造技術で提携した。その後、サムスンは日本企業の半導体産業を壊滅させるほどの規模に成長したため、佐々木の判断への厳しい批判も行われた。しかし、佐々木は「日本半導体産業の敗因は、外に技術を漏らしたことではなく、自らが足を止めたことにあると考えている」と反論をしている。 一方、李から液晶について教えを請われた際には、小林は断ったという。李はこれに納得したというが、その部下はシャープの技術者から液晶技術を剽窃し、シャープでは技術幹部が韓国に渡航しないようパスポートを預かるまでに至った。佐々木はその時にも「与えられるものを与えて、感謝してくれればいい。少なくともシャープの味方にはなるだろう」と思っていたと語っている。 しかし、李がトップを離れた時期に、サムスンがシャープに特許訴訟を起こした。そのことについては「(訴訟を起こすのは)サムスンが情けなかった。李さんはシャープに感謝しとるからね。」と述べており、李の復帰後、直接話をして訴訟は和解した。
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