ゴットシャルク:「古典的作品」(1845年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 19:42 UTC 版)
「フリードリヒ・カルクブレンナー」の記事における「ゴットシャルク:「古典的作品」(1845年)」の解説
アメリカ人のピアニスト、ゴットシャルクはカルクブレンナーの代理教師であり、彼の方法論を受け継ぐスタマティの弟子だった。ゴットシャルクがサル・プレイエルでショパンのピアノ協奏曲第一番を弾いてデビューした時、カルクブレンナーも客席にいた。演奏会の後、ショパンが楽屋に来てゴットシャルクの成功を称えた。カルクブレンナーは自分のような偉人がまだデビューしたての者に会ってやるのだから、自分が楽屋に行くのではなく、ゴットシャルクが自ら自分に会いに来るようにと言った。ゴットシャルクは義理堅くも、翌日その言葉に従った。その彼らの思い出深い出会いについて、ゴットシャルクは以下のように語っている。 1844年まだ若かった私は、パリで当時有名だったピアニストを皆招待して夜会を行い、その中にはカルクブレンナーもいた。私はショパンのピアノ協奏曲第一番ホ短調、タールベルクの"セミラーミデによる幻想曲"、リストの"悪魔ロベールによる幻想曲"を弾いた。翌日私は聴きにきてくれたことへの感謝の意を伝えるため、カルクブレンナーの元を訪れた。この気配りにより、新しい楽派がものを知ろうとすることを許さなかった、この普段気難しい性質の老ピアニストをいくらか懐柔することが出来た。彼は私の手を取り、恩着せがましくこう言った。「表現はいい。他には何も驚くべきところはないな。君は私の孫だ(彼の弟子であるStamatyのことを暗に言っている)。しかし、お願いだ、誰があんな音楽を弾くように言ったのかね。ショパンだなんて!私は君を許しはしないぞ。だが、リストとタールベルク、なかなかの狂詩曲だな!ところでなぜ私の作品を演奏しなかったのかね。どの曲も美しいし、誰もが喜ぶ、それに古典的だぞ。」
※この「ゴットシャルク:「古典的作品」(1845年)」の解説は、「フリードリヒ・カルクブレンナー」の解説の一部です。
「ゴットシャルク:「古典的作品」(1845年)」を含む「フリードリヒ・カルクブレンナー」の記事については、「フリードリヒ・カルクブレンナー」の概要を参照ください。
- ゴットシャルク:「古典的作品」のページへのリンク