コロンビア・レコード入社後
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「ジョン・ハモンド」の記事における「コロンビア・レコード入社後」の解説
1939年、ハモンドはコロムビア・レコードに入社するが、このときコロムビア・レーベルに所属していた黒人ミュージシャンは、デューク・エリントンだけであった。 ハモンドは、第二次世界大戦中は陸軍の軍務に就いていたが、仕事はおもにショーの企画運営であった。1946年に除隊となったが、ハモンドは、戦後1940年代半ばのビバップ時代のジャズ・シーンには心を動かされなかった。 1950年代後半にコロムビア・レコードに復帰し、ピート・シーガーとババトゥンデ・オラトゥンジ(英語版)をコロムビア・レーベルに契約させ、当時18歳のゴスペル・シンガーだったアレサ・フランクリンを発掘した。 1961年ハモンドは、キャロリン・ヘスター(英語版)のセッションで、フォーク・シンガーのボブ・ディランが吹いていたハーモニカを聴き、ディランをコロムビアと契約させた。コロムビアの役員たちがディランのことを「ハモンドの愚行」と呼んで非難したにも関わらず、ハモンドはディランをレーベルから手放さなかった。ハモンドは、セカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』までディランの初期作品をプロデュースした。 ハモンドはまた、非常に影響力が大きい企画であったロバート・ジョンソンの録音を没後に再発する企画(プロデューサーはフランク・ドリッグス)にも関わっており、コロムビア・レコードを説得してアルバム『デルタ・ブルースの王様(英語版)』を1961年に発売させた。 ハモンドが、コロムビア・レーベルに契約させたアーティストには、レナード・コーエンやブルース・スプリングスティーンが含まれている。
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