ゲルマニクスの遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 18:38 UTC 版)
「ローマ帝国初期のゲルマニア戦役」の記事における「ゲルマニクスの遠征」の解説
翌13年、アウグストゥスはゲルマニクスをライン川方面の司令官に任命した。14年8月、アウグストゥスが死去し、元老院がティベリウスをプリンケプス、次期皇帝とした。タキトゥスやカッシウス・ディオらローマの歴史家たちは、アウグストゥスが死に際して拡張政策を取りやめるよう遺言したと伝えている。これが事実であるかどうかは定かでないが、少なくともティベリウスは莫大な金銭的・軍事的資源を費やす拡張政策を止めなければならないと考えていた。 この時点で、ライン川方面にはローマ帝国軍の3分の1にあたる8個軍団が駐屯していた。うち4個軍団はゲルマニア・インフェリオルのアウルス・カエキナ・セウェルスの指揮下に置かれ、第5軍団アラウダエと第21軍団ラパクスがクサンテンに、第1軍団ゲルマニカと第20軍団ウァレリア・ウィクトリクスがケルン近くに配置された。またゲルマニア・スペリオルには、ガイウス・シリウスの指揮下で第2軍団アウグスタ、第13軍団ゲミナ、第16軍団ガリカ、第14軍団ゲミナ)の4軍団が置かれた。 14年から16年にかけて、ゲルマニクスはライン川を渡ってゲルマニアに侵攻し、アルミニウスやその同盟者たちと戦った。タキトゥスによれば、この戦争はウァルスの仇討ちが目的で、領土拡張を志したものではなかった。そのため、ローマ軍がいくつかの小規模な衝突で勝利したと言っても、アルミニウスがウァルスを倒して以来の大勢を変えるには至らなかった。 9年のトイトブルク森の戦いで2万人のローマ軍団兵・補助兵が戦死したが、ゲルマニクスの遠征を通してみるとそれを上回る2万から2.5万人のローマ兵が戦死したと考えられている。合わせると、9年から16年までの間に4万人に上るローマ兵がゲルマニアに消えたことになる。
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