ゲイエティ・シアター
ゲイエティ・シアター (Gaiety Theatre) あるいはゲイエティ劇場、ゲイエティ座とは、以下のいずれかを指す。ガイエティ・シアター、ガイエッティ・シアターなどと表記されることもある。
- ゲイエティ・シアター (ダブリン) - 1871年設立のダブリンの劇場。
- 山手ゲーテ座 - かつて日本の横浜にあった劇場。岩崎学園がこの劇場を記念する博物館とホールを有している。
- ゲイエティ・シアター (ロンドン) - かつてロンドンにあった劇場。
- ゲイエティ・シアター (モントリオール) - かつてモントリオールにあった劇場で、その後同じ建物にテアトル・デュ・ヌーヴォー・モンドが入っている。
- かつてニューヨークにあったブロードウェイの劇場。その後ヴィクトリア劇場、エンバシー・ファイヴ・シアターと名前を変更した後に廃業。
- ゲイエティ・シアター - かつてニューヨークにあった男性バーレスクの劇場。
ゲイエティ座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/01 14:13 UTC 版)
「ヴィクトリア朝のバーレスク」の記事における「ゲイエティ座」の解説
バーレスクは1860年代から1890年代初めにかけて、ロイヤル・ストランド座とゲイエティ座の呼び物となった。1860年代から1870年代にかけてのバーレスクは通常、一時間以下の一幕物だった。ネリー・ファレンはゲイエティ座で1868年から「看板男役」として出演し、ジョン・ドーバンはこの年から1891年までここでバーレスクの振付を担当した。エドワード・オコナー・テリーや、スカートダンスで有名なケイト・ヴォーンも1876年に劇場に入った。初期のゲイエティ座のバーレスク演目にはW・S・ギルバートの『悪魔ロバート』(Robert the Devil, 1868), The Bohemian G-yurl and the Unapproachable Pole (1877)、Blue Beard (1882)、F・C・バーナンドのAriel (1883)、Galatea, or Pygmalion Reversed (1883)などがある。 1880年代には、コメディアンで作家のフレッド・レズリーがゲイエティ座に入り、メイヤー・ラッツやオズモンド・カーのような作曲家がバーレスクにオリジナルの楽曲を提供するようになり、作品は二幕あるいは三幕形式をとる長編に成長していった。こうした後期ゲイエティ座のバーレスクにはファレンとレズリーが出演した。「A・C・トー」という筆名で書かれたレズリーのリブレットを使うことがよくあった。通常はラッツによるオリジナルの楽曲が使われた。Little Jack Sheppard (1885)、Monte Cristo, Jr. (1886)、Pretty Esmeralda (1887)、Frankenstein, or The Vampire's Victim (1887)、Mazeppa、『当世ファウスト』(Faust up to Date, 1888)などがある。 『リューイ・ブラスと無関心な遊び人』(Ruy Blas and the Blasé Roué, 1889)はヴィクトル・ユーゴーの戯曲『リュイ・ブラース』をからかうものだった。タイトルは"Ruy Blas"と" Blasé Roué"の音の類似にひっかけたシャレで、シャレが寒いものであるほど、ヴィクトリア朝の観客は喜んだ。ゲイエティ座で再度に上演されたバーレスクは Carmen up to Data (1890)、Cinder Ellen up too Late (1891)、エイドリアン・ロス作詞のDon Juan (1892)である。 1890年代初頭にファレンが引退し、レズリーは亡くなった。ゲイエティ座や他のバーレスク劇場が新しいジャンルであるエドワード朝風ミュージカル・コメディに重点を移していくにつれて、ロンドンではバーレスク音楽劇が流行遅れになっていった。1896年にシーモア・ヒックスはバーレスクの死を宣言し、引退にあたりネリー・ファレンもこの判断を支持した。
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