横浜ゲーテ座とは? わかりやすく解説

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横浜ゲーテ座

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/03 15:50 UTC 版)

横浜ゲーテ座
山手ゲーテ座跡に建てられた岩崎博物館
山手ゲーテ座跡(現・岩崎博物館)の位置
概要
住所 神奈川県横浜市中区山手町254番地
所在地 日本・神奈川県横浜市
座標 北緯35度26分22.9秒 東経139度39分06.2秒 / 北緯35.439694度 東経139.651722度 / 35.439694; 139.651722
種類 劇場(外国人居留地劇場/公会堂)
座席数 130(初代)/改築後500超(2代目)
建設
開業 1870年12月6日(初代:本町通りゲーテ座)
再開業 1885年4月(2代目:山手ゲーテ座)
解体 1923年(関東大震災で崩壊)
設計者 ポール=ピエール・サルダ(2代目)
ウェブサイト
www.iwasaki.ac.jp/museum/
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1898年頃のゲーテ座

横浜ゲーテ座(よこはまゲーテざ)は、横浜に存在したいくつかの劇場の総称である。横浜居留地の外国人劇場として1870年に本町通りゲーテ座が開館し、手狭になったため1885年に山手に新しい劇場が建てられ、1908年からはそこが山手ゲーテ座として運用された。外国人向けにエンタテイメントを提供する劇場として運営されていたが、山手のゲーテ座は1923年に関東大震災で崩壊し、閉館となった。1980年に岩崎学園により跡地にゲーテ座を記念する博物館とホールが建てられた。

本町通りゲーテ座

1859年に横浜が開港し横浜居留地が作られたが、人口の増加に応じて1863年には既に劇場の必要が唱えられていた[1]。居留地135番に中国人住民が使用する劇場が作られ、欧米人のアマチュア劇団も使用していた他、貸し馬車屋や倉庫を改装した簡易的な劇場やドイツ倶楽部、生糸検査場、その他のホールや公園などが催し物の場所として使われていた[2]。1869年末には欧米系向けの本格的な劇場を作るための資金集めが始まり、1600ドルの資金が集まった[3]オランダ人であるM・J・B・ノールトフーク・ヘクトが1866年に劇場機能を有する倉庫を建築していた本町通り68番(現在の中区山下町68番地)が新劇場の場所として選ばれた[4]。1870年12月6日にここに本町通りゲーテ座が開館し、こけら落としの演目はバーレスク『アラディン――素敵な悪漢』と笑劇『可愛い坊や』のアマチュア上演であった[5]。収容人数は130人ほどであった[6]

ゲーテ座では巡業中の外国人の劇団が出演する他、アマチュア劇団も公演を行っていた[7]。『ハムレット』などのシェイクスピア劇が早い時期からたびたび上演されていたと推定されている[8]。1875年にはイギリス系インド人であるディヴ・カーソンらがバーレスク版『ハムレット』をゲーテ座で上演した[9]。一方でオペレッタや軽演劇の上演も多く、横浜に住む外国人観客は「必ずしも高尚なものばかりを劇場に求めていたのではない」ことがわかる[10]

この劇場は舞台上演以外にもさまざまな用途で使用され、教会が不足していた時期は礼拝も行われていたという[11]。外国から来たプロの演奏家が演奏を披露する音楽会なども開かれた[12]。日本の登山家の草分けのひとりであるウォルター・ウェストンが日本の山岳についての講演をここで行ったこともあり、のちに山岳紀行文で知られるようになる小島烏水も聴講していたという[13]

1885年の春に山手の新劇場が開館したため、本町通りの劇場はゲーテ座としての営業を一応、終了した[14]。しかしながら公的な営業終了後も散発的に各種イベントやエンタテイメントの会場として使用され、その後は1923年の関東大震災まで倉庫として使用されていた[15]

山手ゲーテ座

本町通りのゲーテ座はすぐに手狭になってしまったため、1873年にはさらに大きい新しい劇場が必要であるという意見が住民の間から出るようになり、1881年に新劇場建設の動きが具体化した[16]。新劇場はもともとはイギリス軍兵舎があった山手の256-257番地に建てられることになった[17]。設計はフランス人の建築家であるポール=ピエール・サルダが担当することとなった[18]。1885年の4月、横浜に住んでいる外国人住民の出資で立ち上げられたパブリック・ホール・アソシエーションにより、山手にのちの2代目のゲーテ座となる劇場が開館した[14]。新劇場の客席キャパシティは306席であった[19]。当初は「横浜山手公立劇場」「横浜公堂」「山手公会堂」「パブリック・ホール」などと呼ばれていた[20]。当初は巡業劇団の公演もアマチュア公演も比較的低調で、財政的には赤字であった[21]

新しいパブリック・ホールでは演劇のみならず、アマチュア演奏家や横浜に寄港した日本国外の軍艦の音楽隊によるコンサート、著名人による講演会なども盛んに行われた[22]。1889年には能楽歌舞伎も上演されている[22]

1900年頃から、地元の英米人を中心とするアマチユア・ドラマチツグ倶楽部が活発に活動するようになり、パブリック・ホールでギルバート・アンド・サリヴァンサヴォイ・オペラなどを毎年上演していた[23]。演技の水準が高かったため、東京の有楽座や帝国劇場でも倶楽部のメンバーが公演を行っている[24]。1906年からはイギリスのバンドマン一座が巡業公演を行っており、ジェームス・マシュー・バリーの作品などを上演していた[25]

山手のパブリック・ホールは実質的には地域住民が使用する公会堂として機能していたものの、地方自治体が管理する公会堂ではなく、営利企業のように運営されていたため、運用実態には矛盾があった[26]。このため、1907年に管理団体であったパブリック・ホール・アソシエーションが解散し、1908年にファー・イースタン・パブリック・ホール株式会社が発足して、山手のパブリック・ホールは改名して商業劇場であるゲーテ座という名称で運営されるようになった[27]。この時期に改築が行われ、500人以上を収容できるようになった[28]

1912年にはイギリスのアラン・ウイルキイ一座がゲーテ座で巡業公演を行い、日本で初めてオスカー・ワイルドの『サロメ』を上演した[29]。これは帝国劇場での芸術座による松井須磨子主演の『サロメ』に先立つものであり、日本におけるサロメブームの始まりとなるものであった[29]

1923年に関東大震災により崩壊した[12][30]。この後、1970年代後半頃まで山手ゲーテ座の正確な場所は不明となってしまった[12]

岩崎博物館

岩崎博物館のエントランス(山手ゲーテ座跡地に建設)
ゲーテ座の解説パネル

1978年に発掘調査が実施され、よくわからなくなっていた山手ゲーテ座の詳細がわかるようになった[12]。1980年、岩崎学園横浜洋裁学院創立50周年記念事業としてゲーテ座跡地の一部に岩崎博物館が建てられた[12][31]。この時、「横浜の近代化の中で、ゲーテ座の担ってきた役割」を記念するためにゲーテ座ホールが博物館内に作られることになった[19]。建築は瀬尾武志が担当した[19]。煉瓦タイルを用いた博物館風の建築物とすることが施主、市、地元の意向で決まっており、瀬尾はデザインからコスト、技術的な側面までかなりの苦労をしてこの建物を完成させたという[32]。煉瓦タイルは「横浜らしさ」を求める地元の意向で使用されたと考えられているが、これについては「あまりにも直截的である安易すぎる発想」であるという批判もある[33]。このゲーテ座ホールは音楽会などに使用されている[34]。展示スペースではゲーテ座関連資料の他、服飾やポスターなどに関する展示を行っている[35][36]

影響

横浜の外国人住民と日本人住民両方によって演劇に限らないさまざまな文化イベントの会場として使用されたため、「横浜文化発祥の地[19]」とも言われている。ゲーテ座は、「娯楽の少い居留地住まいの人々にとっては貴重なレクリエーションの場」であった[7]。多くの芝居の日本初演がここで行われた他、音楽分野でも定評のある奏楽堂であった[37]。文学や演劇に関心を持つ日本人観客もここの演目を見ており、イギリス出身者などからなるプロ、アマチュア両方の劇団によって明治期から西洋演劇がしばしば上演されていたため、ゲーテ座は「翻訳劇や翻案劇にも直接間接の刺戟を与えた[38]」「近代日本演劇誌に特記されるべき劇場[39]」であると考えられている。日本の「新劇運動に影響を與えたことも大きかった[40]」。北村透谷和辻哲郎萩原朔太郎などがゲーテ座の公演を見て影響を受けたと考えられている[41]小山内薫もしばしばゲーテ座に通ってジェームス・マシュー・バリージョージ・バーナード・ショーオスカー・ワイルドなどの芝居を見ている[42]坪内逍遥はゲーテ座で初めて、日本で外国人俳優が上演するシェイクスピア劇を見た[29]芥川龍之介もここで『サロメ』の公演を見ている[29]歌舞伎役者も西洋演劇を知るためゲーテ座を訪れていたという[43]

脚注

  1. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年、24-25頁。 
  2. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年、16-23頁。 
  3. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年、25頁。 
  4. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年、33-34頁。 
  5. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年、32-33頁。 
  6. ^ 松本克平『日本新劇史――新劇貧乏物語』筑摩書房、1975年、438頁。 
  7. ^ a b 松本伸子『明治前期演劇論史』千修、1974年、202頁。 
  8. ^ 河竹登志夫『比較演劇学』南窓社、1967年、222-223頁。 
  9. ^ 河竹登志夫『比較演劇学』南窓社、1967年、223頁。 
  10. ^ 松本伸子『明治前期演劇論史』千修、1974年、30頁。 
  11. ^ 野田宇太郎『横浜湘南文学散歩』雪華社、1963年、54頁。 
  12. ^ a b c d e 概要・沿革”. 岩崎博物館. 2025年8月26日閲覧。
  13. ^ 野田宇太郎『横浜湘南文学散歩』雪華社、1963年、56頁。 
  14. ^ a b 小柴俊雄「明治期の横浜「ゲーテー座」の興行」『神奈川県史研究』第23巻、1974年、11-19、p. 11。 
  15. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年、72-74頁。 
  16. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年、63-64頁。 
  17. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年。 
  18. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年。 
  19. ^ a b c d 「現代様式建築始末記」『新建築』第56巻第3号、1981年、241-247、p. 246。 
  20. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年。 
  21. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年。 
  22. ^ a b 小柴俊雄「明治期の横浜「ゲーテー座」の興行」『神奈川県史研究』第23巻、1974年、11-19、p. 17。 
  23. ^ 小柴俊雄「明治期の横浜「ゲーテー座」の興行」『神奈川県史研究』第23巻、1974年、11-19、p. 12。 
  24. ^ 小柴俊雄「明治期の横浜「ゲーテー座」の興行」『神奈川県史研究』第23巻、1974年、11-19、p. 13。 
  25. ^ 小柴俊雄「明治期の横浜「ゲーテー座」の興行」『神奈川県史研究』第23巻、1974年、11-19、p. 14。 
  26. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年、77頁。 
  27. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年、79-80頁。 
  28. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年、84頁。 
  29. ^ a b c d 小柴俊雄「明治期の横浜「ゲーテー座」の興行」『神奈川県史研究』第23巻、1974年、11-19、p. 16。 
  30. ^ Gaiety Theatre. Yokohama”. UHM Library Digital Image Collections. 2025年10月3日閲覧。
  31. ^ 岩崎博物館(ゲーテ座記念)”. ヨコハマアートナビ. 2025年10月3日閲覧。
  32. ^ 「現代様式建築始末記」『新建築』第56巻第3号、1981年、241-247、pp. 246-247。 
  33. ^ 「現代様式建築始末記」『新建築』第56巻第3号、1981年、241-247、p. 247。 
  34. ^ ゲーテ座ホール”. IwasakiMuseum LTE. 岩崎博物館. 2025年10月3日閲覧。
  35. ^ 展示品について”. IwasakiMuseum LTE. 岩崎博物館. 2025年10月3日閲覧。
  36. ^ 岩崎ミュージアム”. 横浜観光情報 (2022年6月15日). 2025年10月3日閲覧。
  37. ^ 升本匡彦『横浜ゲーテ座――明治・大正の西洋劇場』(第二版)岩崎博物館出版局、1986年、197頁。 
  38. ^ 河竹登志夫『比較演劇学』南窓社、1967年、222頁。 
  39. ^ 河竹登志夫『比較演劇学』南窓社、1967年、220頁。 
  40. ^ 野田宇太郎『横浜湘南文学散歩』雪華社、1963年、55頁。 
  41. ^ 野田宇太郎『横浜湘南文学散歩』雪華社、1963年、55-59頁。 
  42. ^ 小柴俊雄「明治期の横浜「ゲーテー座」の興行」『神奈川県史研究』第23巻、1974年、11-19、pp. 15-16。 
  43. ^ 松本伸子『明治前期演劇論史』千修、1974年、265頁。 

関連項目

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