グルジアの社会制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:49 UTC 版)
「ロシア帝国下のグルジア」の記事における「グルジアの社会制度」の解説
19世紀初期にロシアによる統治が始まった頃、グルジアの社会制度は未だに封建制であった。その頂点はグルジア諸国の王家だったが、彼らはロシアに追放され、亡命していた。その下は人口の約5パーセントを占める貴族で、彼らは主に特権を守ろうとしていた。貴族は土地の大半を所有していたが、実際に耕作していたのは人口の大半を占める不自由な農奴であった。農村経済はオスマンとペルシアによる支配時代にひどく衰退しており、グルジアの農奴はその大半が貧困して、飢えの脅威に常に晒されていた。飢饉がおこると反乱がおこるのも常であり、一例としては1812年にカヘティでおこった大規模な反乱がある。都市に住むものは少数で、そこで行われた貿易や工業もアルメニア人に支配されていた。そのため、時代が下って資本主義がグルジアにもたらされたとき、アルメニア人は真っ先にその機会を捉えて富を蓄え、中流階級にのしあがった。アルメニア人がグルジアの経済を支配したことでグルジアにおける階級間の対立に種族対立が加わってしまった。
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