グランヴィル伯爵の「短命内閣」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 07:41 UTC 版)
「ヘンリー・ペラム」の記事における「グランヴィル伯爵の「短命内閣」」の解説
「短命内閣」も参照 しかしこの間、ジョージ2世とペラムの対立は深まっていた。ジャコバイト蜂起の勃発にあたり、ペラムはジョージ2世にハノーファーからの帰国を求めたが拒否され、一方グランヴィル伯爵は本国の駐留軍だけで反乱を鎮圧できると述べ、ジョージ2世に大陸ヨーロッパでの参戦を続けるよう助言した。このようにジョージ2世はグランヴィルが失脚した後も外交政策についてグランヴィルからの影響受け続けた。 1746年2月にはこの対立が深刻化し、国王はペラムの上奏した大ピット登用の閣僚人事案を拒否した上(大ピットはハノーファー優先策に反対していたので国王から嫌われていた)、グランヴィル伯を首班とする内閣の樹立を画策した。これに対しペラムは1746年2月11日に辞任、グランヴィル伯爵とバース伯爵が組閣を試みたが、庶民院議員の支持を得られず(議員558名のうち、192名がペラムを支持、80名がグランヴィルとバースを支持)、14日にはペラムが首相に復帰した。この事件を機に国王はペラムに完全屈服する羽目となり、大ピット登用も実現させることができた。しかし同時にこの事件は「国王はホイッグ政治家によって不当に囚われている」という神話を強化することになり、ペラムは同時代のカリカチュアで「国王ヘンリー9世」(King Henry the Ninth)として度々取り上げられるようになった。 1746年4月17日、王立協会フェローに選出された。
※この「グランヴィル伯爵の「短命内閣」」の解説は、「ヘンリー・ペラム」の解説の一部です。
「グランヴィル伯爵の「短命内閣」」を含む「ヘンリー・ペラム」の記事については、「ヘンリー・ペラム」の概要を参照ください。
- グランヴィル伯爵の「短命内閣」のページへのリンク