グラム・パーソンズとともに
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:51 UTC 版)
「エミルー・ハリス」の記事における「グラム・パーソンズとともに」の解説
ハリスはすぐに、ジェリー・ミュールとトム・ガイドラとのトリオの一部として演奏活動に復帰した。1971年にカントリーロックグループフライング・ブリトー・ブラザーズのメンバーがハリスパフォーマンスを見る機会があった。バーズの元メンバーであるクリス・ヒルマンがバンドを引き継いでおり、ハリスに感銘を受けてフライング・ブリトー・ブラザーズに加わるよう彼女に頼むことを考えた。そうする代わりにヒルマンはハリスを自身の初のソロアルバム『GP』に参加してもらう女性ヴォーカリストを探していたグラム・パーソンズに推薦した。ハリスは、1973年にパーソンズのバンド、フォールンエンジェルズのメンバーとしてツアーを行い、素晴らしいハーモニーヴォーカルとデュエットを披露した。その年の後半、パーソンズとハリスはスタジオアルバム『グリーヴァス・エンジェル』の製作に取り組んでいたが、パーソンズは1973年9月19日に現在のジョシュア・ツリー国立公園近くのモーテルの部屋で、薬物とアルコールの偶発的な過剰摂取により死亡してしまった。パーソンズの『グリーヴァス・エンジェル』は1974年に死後リリースされ 、ハリスとのセッションからの3つのトラックは、1976年に別の死後のパーソンズのアルバム、『スリープレス・ナイト』に収録された。この時期に録音された音源からなるもう一枚のアルバムは『ライヴ1973』にまとめられたが、1982年までリリースされなかった。 パーソンズの死に打ちのめされて一時期音楽活動を辞めてしまおうと考えていたが、それ以前からの友人であったリンダ・ロンシュタット達の励ましもあってソロでの活動を進めることになった。
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