キリスト禁教令
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大八を処した同日の慶長17年3月21日、幕府は公的に幕府直轄地に対してキリスト教の禁教令を発布して大名に棄教を迫った。キリシタン大名は改易など厳しい処分を受けたが、原胤信など旗本の一部はこれに応じず潜伏を図った。家康の側室抜擢に難色を示したジュリアおたあもこのとき伊豆大島へ流されている。慶長18年(1613年)2月19日、幕府は禁教令を全国に拡大し、家康はさらに「伴天連追放之文」を起草させ徳川秀忠の名で発布させた。 藤広は直純の後見人となったが、予てから領内のキリスト宗派が異教に対して狂気的な活動を行っているのも目にしており、領内のキリスト教弾圧を積極的に推進しはじめる。またこれを効率的に進めるべく有馬の所領を長崎へ併合させることを家康に進言した。直純は家督を相続して後に禁教令に従って棄教し、領内のキリスト教の排除もすすめるなど幕府の政策に従順であったが、藤広の言を受け入れて慶長19年(1614年)7月、直純は日向国延岡藩に転封、有馬の地は天領とされた。9月には高山右近をはじめ、修道会士や宣教師など主たるキリスト教徒をマカオやマニラに国外追放に処した。
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