カスペの妥協以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 01:43 UTC 版)
バルセロナ家の別系統が治めていたシチリア王国は、1377年にフェデリーコ3世の死により男系男子が絶えた後、1392年にマルティン1世(母レオノールはフェデリーコ3世の姉)と息子の若マルティン(マルティン1世の異母姉コンスタンサとフェデリーコ3世の娘マリア女王と結婚)によって征服されていたが、マルティン1世の死後は在地の貴族たちが内紛によって消耗していた。そのため、2年間の空位を経た後もアラゴン王に対抗する余力がなく、翌1413年にカターニアの議会でフェルナンド1世をシチリア王として承認した。 カスペの妥協によって王位請求権の問題は完全に決着したわけではなかった。有力候補でありながら王位を得られなかったウルジェイ伯ジャウマ2世はただちに兵を挙げたが、フェルナンド1世に敗れ、翌1413年から20年間幽囚の身となってそのまま死去し、これによりバルセロナ家の正嫡の男系男子は絶えた。その間、1416年にフェルナンド1世の長男アルフォンソ5世が王位を継承している。 また、1458年にアルフォンソ5世の後を継いだ弟フアン2世に対して起こったカタルーニャの内乱 (en) が1462年から1472年まで続く間に、対立王としてフアン2世の甥であるカスティーリャ王エンリケ4世、ウルジェイ伯ジャウマ2世の外孫でポルトガル王族のペドロ・デ・コインブラ、ルイ3世・ダンジューの弟ルネ・ダンジューが次々とバルセロナ伯に選ばれた(彼らはアラゴン王も称したが、バレンシア王位はフアン2世が終始保っていた)。ルイ3世・ルネ兄弟との間では、他にもアルフォンソ5世がナポリ王位の継承権を争い、1442年に獲得を果たしている。なお、若マルティンの後妻であったナバラ王女ブランカがフアン2世の最初の妻となっており、フアンのアラゴン王位継承以前の1425年に共同でナバラ王位を継承している。 1479年にアラゴン王位を継いだフアン2世の息子フェルナンド2世は、すでに1474年に妻イサベル1世とともにカスティーリャ王位についており、これによってアラゴン連合王国とカスティーリャの連合が新たに成立し、スペイン王国へと統合されていくことになる。
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