オベリスクの確保
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 02:46 UTC 版)
「クレオパトラの針」の記事における「オベリスクの確保」の解説
エジプトのオベリスクを確保してニューヨークに立てるというアイデアは、1877年3月のニューヨークの新聞に掲載されたロンドンのオベリスク輸送の記事が元になっている。すでにパリのコンコルド広場には1836年にルクソール神殿から運ばれたオベリスクが建てられており、パリにもロンドンにもオベリスクが立つならニューヨークにも立てるべきではないか、という論法である。その記事では、ロンドンへのオベリスク輸送を手配したジョン・ディクソンが1869年にエジプト総督からアレキサンドリアにある残りのオベリスクをアメリカに贈るという申し出を受けたと報じているが、ディクソンはそのような事実はなかったと記事を否定している。その新聞記事に基づき、当時ニューヨーク市の公園管理部門を指揮していたヘンリー・G・ステビンズ(後の下院議員)は、ニューヨークへのオベリスク輸送のための資金集めに着手した。鉄道王ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルトは依頼を受け、そのプロジェクトに10万ドル以上の寄付をすることを約束した。 ステビンズはアメリカ合衆国国務省を通してエジプト総督宛てにオベリスクを受け入れ可能だとする書簡を2通送り、それがカイロ総領事のファーマンに届いた。ファーマンはニューヨークの新聞記事の誤解が元だと気付いたが、残っているどちらかのオベリスク(パリのものと対になるルクソールのオベリスクか、ロンドンのものと対になるアレクサンドリアのもの)を確保する好機だと判断した。そこで1877年3月、正式にエジプト総督に申し入れ、同年5月にはオベリスクを贈るという文書での確約を得た。
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