エドウィン・ベアードの時代(創刊号~1924年4月号)
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「ウィアード・テイルズ」の記事における「エドウィン・ベアードの時代(創刊号~1924年4月号)」の解説
社主ヘネバーガーは、1923年3月、『ディテクティヴ・テイルズ』誌の姉妹誌としてウィアード・テイルズを創刊した。 ヘネバーガーは、初代編集長にエドウィン・ベアード(en:Edwin Baird)を起用し、後に2代目編集長となるライトや冒険小説かオーティス・アデルベルト・クラインも編集に協力した。執筆陣としてハワード・フィリップス・ラヴクラフト、クラーク・アシュトン・スミス、シーベリイ・クインなどの作家を擁していた。彼らは後に同誌最高の作家との評価を得た逸材たちであった。 支払い率は極めて悪く、1語につき0.5セント、有名な作家に対してのみ1語1セントに引き上げられた。それでも伝統的なゴースト・ストーリーが中心であったこと、ごく短い作品が多くストーリーの発展性に乏しかったことなどが原因で部数が伸び悩んだ。ヘナバーガーは、ベッドシーツサイズ(9インチ×12インチ)の大きなパルプ紙に変更し、目立つように工夫したが解決にならなかった。やがて本誌は、40,000ドル(60,000ドルの説もある)の負債を抱えることとなり、第13号の発刊の後、ベアードは解雇された。 この間、ヘナバーガーは、ランシンガーに『College Humour』や『Detective Tales』を売却した金額を負債に充てたり、印刷会社ポピュラー・フィクション・パブリッシングと交渉を続けたりした。またラヴクラフトに編集者にならないかと話を持ち掛けブルックリンを2度訪ねたとしている。ラヴクラフトのフランク・ベルナップ・ロングへの手紙では、「ヘナバーガーは、ポウやマッケンのような恐怖小説に絞った雑誌を望んでいる。私にうってつけの雑誌だ。」と書いている。ラヴクラフトは、若い頃から校正(ほとんどゴーストライター)や多くの作家にアドバイスしていたこともあり一定の収入が得られることもヘナバーガーは、提案のうちに含めていた。しかしラヴクラフトは、ニューヨークを離れて、もっと寒いシカゴに移るという条件を嫌がって実現しなかった。
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