ウースターの功績を称える
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/11 04:06 UTC 版)
「デイビッド・ウースター」の記事における「ウースターの功績を称える」の解説
1777年6月17日、大陸会議はウースターの功績を称えるために適当な記念碑を建てることを決議したが、その決議を実行する手段が見つからなかった。ウースターの墓は1854年になってやっと識別され、コネチカット州議会が記念碑として礎石を据えた。国道16号線(ノースセイラム道路)がタコラ・トレイルと交わる所から数ヤード離れた所が、ウースター将軍が1777年のリッジフィールドの戦いで倒れた場所とされた。今日、30フィート (9 m)の高さの記念碑がウースターの最後に眠る場所とされている。ウースターはマウント・モリアのウースター墓地に埋葬され、日付は19世紀半ばのものとなっている。ウースターの記念碑の周りには石と鉄の柵がある。記念碑には様々な軍事的なまたフリーメーソンのシンボルが彫刻され、古代ギリシャの文様もある。記念碑に彫られた碑銘は次のようになっている。 ウースターはその邦について語った「私の人生は若いときから邦のために捧げられた。以前はそうでもなかったけれど、今は私が最も喜んで私の人生を賭け、骨を埋めることのできる邦のために。」 1820年代に、ニューヘイブン市は小さな牧草地を公園に変えてウースター広場と名付けた。今日、その広場の一帯は数本の通りを含めてウースターの名前を冠している。その地域は19世紀遅くから20世紀初めにかけて規模の大きなイタリア人移民社会となり、今日でもかなり多くのイタリア系アメリカ人が住んでいる。 ダンベリーの私立学校とストラットフォードの公立学校がウースター・スクールと名付けられた。またニューヨーク市マンハッタン区のウースター・ストリートや、オハイオ州北東部の小都市ウースターも、彼にちなんで名付けられたものである。
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