ウクライナ全軍の司令官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/08 06:22 UTC 版)
「ステーファン・フメレーツィクィイ」の記事における「ウクライナ全軍の司令官」の解説
1626年の秋、タタールの新しい大軍が中部ウクライナへ出発した。10月9日、6000人の傭兵とウクライナ・コサックを率いるフメレーツィクィイは、ビーラ・ツェールクヴァ町の近くのロシ川の岸で敵の本陣を襲い、多数の者を斬り捨てた。翌日には、付近のタタールの小部隊を全滅させた。フメレーツィクィイは大身の貴族であるムルザ40人と敵の兵1200人を捕虜にした。 フメレーツィクィイの名はアナトリアにも知れ渡った。1627年には、オスマン帝国は彼がウクライナにいるということを理由にドニプロ川への進出をあきらめてオチャーコフ(ウクライナ語版)砦へ引き揚げた。 1629年の秋、タタールは再びウクライナを攻めた。そのときのフメレーツィクィイのもとには自分の家来衆しかいなかったため、敵の跡をつけつつウクライナ・コサックの援軍の到着を待っていた。援軍は10月9日になってやっと参陣し、その日のうちに敵の軍勢を撃破した。タタール人は多くの歴々の武将を失い、2000人の兵士が捕虜となった。 この手柄によって、フメレーツィクィイは1630年にキエフ県とオーブルチ郡の長官に任命された。彼が名門出身の貴族ではなかったので、全国議会ではその任命について大身の領主たちが「なりあがり者は職につくべからず」と強く反対していた。しかしフメレーツィクィイは庶民・コサック・多数の貴族、そして王に好まれていたからこそ、県長になれたのであった。そのような人気は単なる武運に基づいていただけではなく、フメレーツィクィイに任されていた領地の合理的な経営にも由来していた。 フメレーツィクィイはオスマン帝国、クリミア・タタール、コサックとの関係をよく理解しており、コサックの力でクリミア汗国をオスマン帝国の保護から離脱させて、反オスマンの「ポーランド・リトアニア共和国とクリミア汗国の同盟」を実現しようとしていた。しかし彼の計画はクリミア汗国の内戦と政治方針の変更によって実現しなかった。 また、フメレーツィクィイはウクライナ人の貴族でありながら、ウクライナ・コサックと友好な関係を維持していて、貴族・コサック合体を強調していた。
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