ウィリアム・カウチと開放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 07:59 UTC 版)
「オクラホマ準州」の記事における「ウィリアム・カウチと開放」の解説
ペインの死後、その仲間のウィリアム・L・カウチがその指導者の役割を継いだ。1884年12月、カウチはブーマーと共にインディアン準州に移動し、12月12日にキャンプ・スティルウォーターを設立した。チェスター・A・アーサー大統領は小さな分遣隊を派遣して、カウチを準州外に送り出そうとした。しかし兵士達が到着した時、200人の武装した男達が軍隊を出迎え、移動を拒否した。軍隊の増援600名が到着し、ブーマー達は48時間以内に出て行くか攻撃されるかの選択を迫られた。ブーマー達が退去を拒むと、軍隊の指揮官は部隊をカンザス州境をこえて動かし、カウチの供給線を遮断した。間もなくカウチ達の食糧が尽き、カウチとブーマー達はカンザスに送り返された。 連邦政府はカウチ達を差別しているというカウチの申立に反応して連邦議会は1885年3月3日、1885年のインディアン配分法を承認した。この法はクリーク族、セミノール族およびチェロキー族インディアンに属する占有されていない土地の割譲について交渉を認めた。カウチが植民者になることを止めロビイスト(院外活動をする人)になったのはこの時点だった。 カウチはオクラホマを解放させるためにワシントンD.C.で4年間を過ごした。しかし、多くの血気にはやる文明化五部族のインディアンもカウチの行動に反対するロビー活動を行った。事態が変化したのは1889年1月になってのことだった。プレザント・ポーターがクリーク族インディアンの集団を率い、彼等の占有されていない土地を売却すると提案した。数週間のうちに未割付の土地は合衆国に売却された。これらの土地はインディアン準州の中心部に300万エーカー (12,000 km2)を少し下回る規模のものだった。 1889年3月2日、連邦議会は1889年のインディアン配分法の修正条項を可決し、オクラホマと呼ばれる未割付の土地をホームステッド法による開拓に開放することを定めた。ベンジャミン・ハリソン大統領は、4月22日にランドラン(走りこみ)によってオクラホマを開放することを宣言した。ランドランは正午に開始され、21歳以上の全ての人々に開放されることとされた。
※この「ウィリアム・カウチと開放」の解説は、「オクラホマ準州」の解説の一部です。
「ウィリアム・カウチと開放」を含む「オクラホマ準州」の記事については、「オクラホマ準州」の概要を参照ください。
- ウィリアム・カウチと開放のページへのリンク