ウィリアム・ウォレスとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:25 UTC 版)
「エドワード1世 (イングランド王)」の記事における「ウィリアム・ウォレスとの戦い」の解説
スコットランドでは、エドワードが総督に任じた第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンがスコットランド民衆を徹底的に弾圧する過酷な統治を行っていた。 しかしそうした統治はスコットランドの中間層や民衆の抵抗運動を招き、それらはウィリアム・ウォレスのもとで一つにまとまった。そして1297年9月にスターリング・ブリッジの戦いにおいてサリー伯率いるイングランド軍はウォレス軍に惨敗した。勢いに乗じたウォレス軍はイングランド北部ノーサンバーランドやカンバーランドへ侵攻を開始した。 エドワード1世はこの前月からフランドル出兵でイングランドを不在にしていたが、ウォレス軍の勝利を聞いて1298年1月に帰国し、同年7月にフォルカークの戦いでウォレス率いるスコットランド軍を撃破した。 ついで1300年からスコットランド侵攻を繰り返し、1303年5月の侵攻でついにスコットランド占領に成功した。1305年9月にはスコットランドの統治組織を定めた統治条例を発した。その間ウォレスはゲリラ戦を展開したり、フランスに援軍を求めるなどエドワードへの抵抗運動を続けたが、1305年8月に奸計にかかってイングランド軍に逮捕された。そして大逆罪により首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処せられた。ウォレスに残虐刑を科すことでスコットランドを恐怖支配しようというエドワード1世の意図だったが、それは成功しなかった。逆にスコットランド人の憤慨を買い、より激しい抵抗運動を招く結果となった。
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