イツィク・フェフェル
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「ポール・ロブスン」の記事における「イツィク・フェフェル」の解説
1943年7月8日に、ユダヤ人反ファシスト委員会(Jewish Anti-Fascist Committee、アルベルト・アインシュタイン総裁)が組織した、アメリカ合衆国においてそれまでで最大規模の親ソビエト集会で、ロブスンはモスクワ国立ユダヤ人劇場の人気俳優兼監督のソロモン・ミホエルスと、イディッシュ人詩人のイツィク・フェフェル(英語版)に出会った。ミホエリスは当時のソ連にあったユダヤ人反ファシスト委員会を率いていて、フェフェルは次席にいた。集会の後でロブスンは、妻エシーとともにミホエリスとフェフェルを歓待した。 6年後の1949年6月、プーシキン生誕150周年の祝賀の間、ロブスンはコンサートで歌うためソ連を訪れた。ユダヤ人芸術家の暮らし向きが気がかりだったので、ロブソンはソ連当局に、自分はフェフェルに会うと伝えた。部屋が盗聴されていたので、フェフェルは身振り手振りと筆談を交えたやりとりを強いられながら、ミホエリスが1948年に秘密警察に殺害されたことを教えた。フェフェルは、多くの他のユダヤ人芸術家が逮捕されたことも伝えた[要出典]。ロブスンは6月14日にチャイコフスキーホールにおけるコンサートで、友人のフェフェルとミホエリスに敬意を表することで反応を公にした。そしてビリニュスのユダヤ人ゲットーのパルチザン(Fareynikte Partizaner Organizatsye)の歌「Zog Nit Keynmol」をロシア語とイディッシュ語で歌った[要出典]。しかし、合衆国に戻るや否や、ロブスンは広範囲にわたるユダヤ人への迫害を否定して、「いたるところでユダヤ人に会ったが、それについては何も聞かなかった」と述べた。 とはいえロブスンは、ソビエトの反ユダヤ主義に気づいていながらもソ連を支持し続けたために、しばしば批判されている。ジョシュア・ルベンステインの著書『スターリンの秘密のポグロム(Stalin's Secret Pogrom)』によるとロブスンは、いかなるソ連批判もアメリカ合衆国における反ソビエト勢力の威光を増すだろうとの理由から、自身の沈黙を正当化したのだという。ロブスンが、米国はソ連に対して先制攻撃を仕掛けたがっていると信じていたからであった。
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