イギリス式軍隊の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/24 15:25 UTC 版)
神奈川奉行所では攘夷派からの襲撃や治安維持、また国際関係が悪化した場合に英仏横浜駐屯軍への防衛対応甫目的として警察力・軍事力が整備された。指揮官の窪田鎮章は書物により洋式兵制を学び、また幕府からの働きかけで駐留英軍より直接伝習を受けることで軍備を調えた。 幕臣などから任命される士官としての「定番役」と近隣よりの徴募による歩兵「番所附下番」で組織された。文久3年(1863年)から始まった定番役と下番の採用は急激に拡大し、文久3年(1864年)9月頃には定番役1300人と下番1300人が居た。定番役には定番役頭取取締、定番取締役、定番役、定番役出役、定番役並、定番役並出役の階級があったとされる。兵隊として徴募された下番は、文官である「役所附下番」と区別され、武官であり「番所附下番」と呼ばれた。元治元年11月、老中の水野和泉守、阿部豊後守、諏訪因幡守がイギリス公使オールコックに対し、横浜駐留のイギリス軍による技術伝習を依頼した。この結果、定番役頭取取締窪田鎮章以下がイギリス軍司令官ブラウン大佐より伝習を受け、合同演習も実施された。 慶応2年(1866年)5月になると神奈川奉行では定番役と番所附下番を廃止し、関所や番所の警備を支配役御用出役と役所附下番の文官に代替させることが通達され、神奈川奉行独自の軍事力は廃止された。定番役は別手組へ、番所附下番は歩兵組へ配属された。また、不足する警備力を補うため、神奈川奉行は幕府歩兵と千人隊(八王子千人同心)を動員している。この動員も慶応3年には変更され、役所附下番が足軽と改称されると、大幅な徴募が行われて千人隊の動員は廃止され、横浜警備は足軽のみで行われるようになった。
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