アーヴィンの遺体の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 06:59 UTC 版)
「ジョージ・マロリー」の記事における「アーヴィンの遺体の問題」の解説
1979年に王洪宝が「1975年の登山時に8,100m地点で西洋人の遺体を発見した」と語った。詳細を語る前に王は雪崩で死んでしまったが、1986年トム・ホルツェルが別の中国人から正確な場所を聞き出した。位置的にマロリーか、アーヴィンだと思われるが、王が「頬に穴があいていた」というのがマロリーの遺体の状況とそぐわない。2001年の調査隊は王が1975年に宿営した地点を特定し、周辺を調査したが、何も見つからなかった。王が見たのは実はアーヴィンの遺体だったのではないかという説もある。 ヘムレブの著作「Detectives on Everest」(未訳)によれば、別の中国人クライマー許競は1960年にアーヴィンの遺体を見たと語っているが、場所に関してははっきりしない。あるときは第6キャンプと第7キャンプの間(標高8,300m地点)といい、あるときは北東稜のファーストステップとセカンドステップの間(標高8,500m地点)といっている。しかし1933年にアイス・アックスが発見されたあと、アーヴィンに関しては一切の手掛かりが見付かっていない。許によれば遺体は仰向けになっていたというが、そこから考えられるのは負傷し、手当てをしていて亡くなったか、あるいは休息していて亡くなったということである。 トム・ホルツェルは2009年、エベレスト航空写真解析の結果、アーヴィンの遺体である可能性のある6ft前後の物体を発見したとし、調査隊を組織しようとしている。なお、トム・ホルツェル自身はマロリーとアーヴィンがセカンドステップをあきらめ下山中ファーストステップから得られる眺望からルートをみつけようとしてファーストステップに上ったところをオデールに目撃されたという説を取っている。その後彼らは吹雪に遭遇し滑落した。最初の滑落では生存したが、その後下山中に死亡したとしている。
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