アレクセイ・ミハイリチェンコとは? わかりやすく解説

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アレクセイ・ミハイリチェンコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 03:42 UTC 版)

アレクセイ・ミハイリチェンコ
名前
本名 アレクセイ・ウラージミロビチ
・ミハイリチェンコ
カタカナ アレクセイ・ミハイリチェンコ
ラテン文字 Alexei Mihailichenko
ウクライナ語

ロシア語
Олексій Михайличенко
Алексей Михайличенко
基本情報
国籍  ウクライナ
生年月日 (1963-03-30) 1963年3月30日(60歳)
出身地 キエフ
身長 179cm
体重 73kg
選手情報
ポジション MF
ユース
1973-1981 ディナモ・キエフ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1981-1990 ディナモ・キエフ 137 (39)
1990-1991 サンプドリア 24 (3)
1991-1996 レンジャーズ 134 (24)
代表歴
1987-1991 ソビエト連邦 36 (9)
1992  CIS 5 (0)
1992-1994 ウクライナ 2 (0)
監督歴
2002-2004 ディナモ・キエフ
2004-2008 ウクライナ代表 U-21
2008-2009 ウクライナ代表
2019- ディナモ・キエフ
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1988 ソウル サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アレクセイ・ミハイリチェンコウクライナ語: Олексій Михайличенко, Alexei (Oleksiy) Mihailichenko, 1963年3月30日 - )は旧ソビエト連邦出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF。中盤のダイナモ、圧倒的な運動量でチームを牽引した。

略歴

ディナモ・キエフの下部組織でサッカーを学び、同クラブの一員として1986年にUEFAカップウィナーズカップ優勝、 ソ連代表の一員として1988年の欧州選手権準優勝、1988年ソウルオリンピック優勝などに貢献した。しかし、1990年のワールドカップ・イタリア大会は大会直前に骨折し出場機会を逃した。その後、移籍した海外のクラブでは常にリーグ優勝を果たしたが、代表レベルでは1991年のソビエト連邦の崩壊により国家形態が目まぐるしく変わっていった事もあり、ワールドカップ出場を果たす事は出来なかった。

現役引退後は指導者の道へ進み、ヴァレリー・ロバノフスキーの後を継ぎディナモ・キエフ監督を務めた後、ウクライナU-21代表、ウクライナA代表も指揮した。

経歴

選手歴

代表歴

指導歴

  • 2002-2004 FCディナモ・キエフ 
  • 2004-2008 ウクライナU-21代表
  • 2008-2009 ウクライナ代表

タイトル

代表

  • オリンピック:1回 (1988)

クラブ

指導者

個人

脚注





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