アルバラードとの戦い
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「テクン・ウマン」の記事における「アルバラードとの戦い」の解説
エルナン・コルテスはペドロ・デ・アルバラードに命じて、180名の騎兵、300名の歩兵、石弓、マスケット、大砲、大量の弾薬、および中央メキシコのトラスカラやチョルーラほかの都市出身の何千人もの同盟軍から攻勢される兵を派遣した。彼らは1523年にソコヌスコに到着した。 アルバラードの軍は太平洋岸に沿って進み、グアテマラ西部のサマラ川 (Samalá River) に到達した。ここはキチェ王国の一部分であり、キチェ軍は渡河を防ごうとしたが失敗した。渡河した後、キチェを恐れさせるために近くの集落を掠奪した。1524年2月8日、アルバラード軍はシェトゥルル(今のスチテペケス県サン・フランシスコ・サポティトラン)で戦い、キチェの弓矢によって負傷したが、町に攻めこんで市場に陣を張った。アルバラード軍はついで川上のシエラマドレ山脈に至り、ケツァルテナンゴ盆地につながる峠を越えてキチェの中心地へと進軍した。1524年2月12日、アルバラードと同盟しているメシカが峠でキチェに攻撃されて後退させられたが、それまで馬を見たことのなかったキチェはスペインの騎兵の突撃に驚いた。騎兵はキチェを追い散らし、シェラフ(今のケツァルテナンゴ)に入ったが、すでに町は放棄されていた。 一般にテクン・ウマンはその後のオリンテペケ (Olintepeque) (ケツァルテナンゴの北)近郊の戦いで死んだとされているが、スペイン側の記録ではケツァルテナンゴへ向かう途上の激しい戦いで少なくとも1人、おそらくは2人のクマルカフの領主が死亡したことが明らかである。テクン・ウマンはエル・ピナルの戦いで死んだとされ、現地の伝承ではケツァルテナンゴへの入口にある今のカンテル村 (Cantel, Guatemala) 近くのウルビナ平地で死んだとされる。アルバラードがコルテスにあてた3通めの手紙(1524年4月11日にクマルカフで書かれた)では、ケツァルテナンゴへの入口で4人のクマルカフの首長のうちひとりの死に言及している。
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