アフガン勢力との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/13 19:49 UTC 版)
「バーラージー・バージー・ラーオ」の記事における「アフガン勢力との抗争」の解説
バーラージー・バージー・ラーオは父親のように征服事業を押し進め、マラーターの権力をインドにおいて頂点に押し上げ、全土を席巻してその支配を確固たるものにした。1750年代になると、シンディア、ホールカル両家はラージャスターンにまで進撃し、ムガル帝国の皇位継承にまで左右するようになっていた。 だが、北進するマラーター同盟は南下するアフガニスタンのドゥッラーニー朝と衝突した。アフガン勢力は南方からムガル帝国の領土へ頻繁に侵入し、1757年1月にアフマド・シャー・ドゥッラーニーがデリーを一時占領するなど、北進するマラーターと南下するアフガン勢力の衝突は避けがたいものとなった。 バーラージー・バージー・ラーオはこの報を聞くと、すぐに弟のラグナート・ラーオをデリーに送った。だが、同年8月11日に彼がデリーの戦いでアフガン勢力を破ったときには、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはすでに退却していた。 1758年3月、ラグナート・ラーオはパンジャーブのラホールへと兵を進め、4月20日にアフマド・シャー・ドゥッラーニーの息子ティムール・ミールザーからラホールを奪い、同月28日にはアトックを、さらに5月8日にはペシャーワルを占領した。 そして、パンジャーブ一帯を占領したのち、同月にラグナート・ラーオはラホールからプネーへと帰還した。
※この「アフガン勢力との抗争」の解説は、「バーラージー・バージー・ラーオ」の解説の一部です。
「アフガン勢力との抗争」を含む「バーラージー・バージー・ラーオ」の記事については、「バーラージー・バージー・ラーオ」の概要を参照ください。
- アフガン勢力との抗争のページへのリンク