アシキールーラ家の反乱とムデハル反乱
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「ナスル朝」の記事における「アシキールーラ家の反乱とムデハル反乱」の解説
アシキールーラ家のアブー・アルハサン・アリーはムハンマド1世と同郷で、さらにナスル家と姻戚関係にあり、建国の功労者であった。また、アシキールーラ家はナスル朝の軍事を取り仕切り、マラガの太守でもあって、アブー・アルハサン・アリーはムハンマド1世の実質的共同統治者の如き存在であった。 1264年、カスティーリャ王国のアンダルシーア地方(ヘレス、アルコス及びムルシアなど)では再植民運動により入植した民衆と、ムデハル(英語版)の農民、手工業者との軋轢が高じてきていた。この状況からムデハルは、アルフォンソ10世の再征服運動の拡大に危機感を抱いたムハンマド1世の支援のもと反乱を起こした。これにより、ムハンマド1世はアルフォンソ10世の宗主権を離れ、マリーン朝に援軍を求めカスティーリャ王国とは戦争状態となった。 1266年、アシキールーラ家はマラガとグアディクスで反乱を起こした。この反乱の原因は、1257年にムハンマド1世が後継者にムハンマド2世を指名したことに対し共同統治者という意識のあったアシキールーラ家は不満を抱き、さらにムデハル反乱においてマリーン朝の援軍を求めたことから、軍事を統括していた地位を脅かされたと感じたこと、あるいはムハンマド1世及び2世がマーリク派法学を支持していたのに対し、神秘主義(スーフィズム)を奉じていたアシキールーラ家が対立したことが考えられている。この反乱に際し、アシキールーラ家はカスティーリャ王アルフォンソ10世に救援を求め、ムハンマド1世と対立した。これに対し、ムハンマド1世はマリーン朝に援軍を求めたものの、マリーン朝からの支援ははかばかしくなく、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に和約を結ぶこととなった。この反乱は後継者のムハンマド2世によってようやく鎮圧され、アシキールーラ家はモロッコへ逃れた。 この間、ムハンマド1世はムデハルの反乱に乗じ、一時はカスティーリャ王国領のヘレス及びムルシアを手中にした。しかし、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に結んだ和約に基づきヘレス及びムルシアを放棄することとなった。これにより、カスティーリャ王国はナスル朝の介入を排除し、アラゴン王国の支援を受けムデハル反乱を鎮圧した。
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