やまびこ打線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 01:14 UTC 版)
「徳島県立池田高等学校」の記事における「やまびこ打線」の解説
監督の蔦は「芯を外れていても腕力が強ければ飛距離が伸びる」という、金属製バットの特性を生かすために、ウエイトトレーニングでひたすら部員の上半身を鍛え上げた。こうして、緻密なプレーはせずにとにかく打ちまくるという強打の「やまびこ打線」を生み出した。1982年夏の甲子園(第64回大会)では畠山準、水野雄仁を擁し、チーム6戦85安打という当時の大会新記録を見事に打ち立てた。特にラストバッターの山口博史は2回戦・3回戦と2試合連続で本塁打を放ち「恐怖の9番打者」と恐れられ、切れ目のない打線の象徴となった。 特に準々決勝の早稲田実業戦では、のちにプロでも活躍したエース荒木大輔と石井丈裕の両投手から、大量14点を奪い圧勝。更に決勝戦では「コツコツ点を取って守り切る」という従来の甲子園戦法の代表のような広島商業相手に初回から猛打で圧倒し、12-2で勝利した。 金属バットは、打力を全面に押し出した方が有利といち早く気付き、徹底して実践した蔦元監督の先見の明は、その後の高校野球に大きな影響を与えた。帝京高校の前田三夫監督や、智弁和歌山高校の高嶋仁監督などが以後、この蔦元監督の池田野球に大きな影響を受けている。
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