つややかな管つけ父は朧なり
作 者 |
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季 語 |
朧 |
季 節 |
春 |
出 典 |
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前 書 |
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評 言 |
おぼろという言葉は「ぼうっとしてはっきりしないさま」と辞書には第一にあげられているが、俳句界の伝統的な使われ方としては、駘蕩とした春の(夜の)気分を情緒的にあらわす季語として確立している。 湿り気をおびた温かい夜気のなかでは、ヴェールがかかったように万象がかすんで見えるが、この季語は景だけではなくものの音(鏡おぼろなど)にも使われる。「語感もやわらかく、曖昧さをよしとする日本人の美意識にかなった言葉」(正木ゆう子氏の角川俳句大歳時記の解説)である。 字義の「おぼろ」には「知覚や記憶が不確かであるさま」にも使われるが、この作品は季語としての朧と合わせ重層的にとらえている。かなり重篤な病人の体には、さまざまな管が取りつけられる。 この句では断定はできないが、いまにも消えていきそうなひとのいのちを、現世と結びつけている〈えにし〉のように見えた、のではないか。 栄養、薬液の投与なのか、酸素吸入なのか、はよくわからないが作者は管が「艶やか」である、ととらえる。この距離を置いた把握が、朧なり、に屈折感をもたらし、せつなく哀しいが凛乎としたポエムとしている。久保田万太郎に「あけし木戸閉めておぼろにもどしけり」の佳句があるが、この作品もおぼろの句としての新鮮さは魅力的だ。 |
評 者 |
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備 考 |
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