すこしづつ死す大脳のおぼろかな
作 者 |
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季 語 |
朧 |
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評 言 |
句集『長嘯』 平成四年刊。 『長嘯』は能村登四郎の第十一句集である。登四郎八十一歳。この後に『易水』『芒種』があるが、共に最晩年の境地の句集であろう。 平均寿命が伸びれば伸びるほど、認知症だの徘徊だのと切なく重い話題に囲まれるようになるが、この句には達観した明るさが漂う。 人間の脳は五十~六十歳ころからその重量が減ってゆくのだそうだが、順調な身体の老いとして当然のことだろう。躓きやすくなるのも、物忘れが増えるのも自然の摂理である。左脳半球は言語を司り、右脳半球は芸術的なことを司るなどというが、道を尋ねても右と左がすぐ混乱するものにとっては、「大脳」は右も左もなく即「頭」で充分である。 ある集まりでこの句の感想を話し合ったことがある。何人かは怖い句であると言い、ある人は楽しい句と言う。「朧」の意味を「ぼんやり」ととれば怖いし、「ほんのり」とすれば心休まる句である。 歳時記の「朧」の項には傍題に「草朧・谷朧・影朧・鐘朧」などのきれいな語が列記されているが、いずれも確かな形あるものが春気に朦朧と見える様を言う。「大脳のおぼろ」は誰も見たことはないが年を重ねてゆくにつれて朧の世界に入ってゆく実感はある。これはある意味では幸せの境地かもしれないが、九十歳の最晩年まで、いや最晩年こそ意欲的に作句を続けた登四郎は無縁のことかもしれない。 陶枕まぎらふものに死と眠り 『長嘯』 行く春を死でしめくくる人ひとり 『芒種』 脳科学者茂木健一郎・俳人黛まどか共著の『俳句脳』にも「現代の朧月夜」の項があるが、さてこれをどう読んでゆこうか。 |
評 者 |
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備 考 |
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