かつての交通の要衝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 02:50 UTC 版)
「京橋 (岡山市)」の記事における「かつての交通の要衝」の解説
江戸期に京橋にちなんで定まった町名として、橋本町、川崎町、舟着町などがあった。橋本町は、東から陸路で城下町の郭内に入る玄関口であり、同時に水路では海船、高瀬舟の船着き場として、交通の要であった。1859年(安政6年)、長岡藩士であった河井継之助が、備中松山の漢学者・山田方谷に入門するため岡山を通った際、京橋から四国には毎日便船があり、大坂へも一と六の日に船が出たと、旅日記「塵壷」に書き残している。橋本町は明治に入っても船着町と並び交通の要衝で、1882年(明治15年)には海運会社汽衛社が設立され、30石の客船2隻をつくって運航していた(山陽新報)。しかし、1891年(明治24年)3月18日に山陽鉄道(現山陽本線)が岡山まで開業し、人や物資の輸送の主役が鉄道に移り、交通の要衝としての機能が低下した。海運機能も岡山港の整備に伴い、廃れて行った。
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