「黒田の聖人へつかはす御文」全文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 03:03 UTC 版)
「一紙小消息」の記事における「「黒田の聖人へつかはす御文」全文」の解説
末代の衆生を、往生極楽の機(き)にあててみるに、行(ぎょう)すくなしとてうたがふべからず。一念十念にたりぬべし。 罪人なりとてもうたがふべからず、罪根ふかきをもきらはず。 時くだれりとてうたがふべからず、法滅已後(いご)の衆生なを往生すべし、いはんやこのごろをや。 わが身わろしとてうたがふべからず、自身はこれ煩悩具足せる凡夫(ぼんぶ)なりといへり。 十方に浄土おほけれども、西方をねがふは、十悪五逆の衆生もむまるるゆへ也(なり)。 諸仏の中に弥陀に帰したてまつるは、三念五念にいたるまで、みづから来(きた)りてむかへ給(たま)ふがゆへ也(なり)。 諸行の中に念仏をもちゆるは、かのほとけの本願なるがゆへ也(なり)。 いま弥陀の本願に乗(じょう)じて往生してんには、願(がん)として成(じょう)ぜずと云う事あるべからず。 本願に乗(じょう)ずる事は、ただ信心(しんじん)のふかきによるべし。 うけがたき人身(にんじん)をうけて、あひがたき本願にあひて、をこしがたき道心(どうしん)ををこして、 はなれがたき輪廻(りんゑ)のさとをはなれて、むまれがたき浄土に往生せん事は、よろこびの中のよろこび也(なり)。 つみをば十悪五逆のもの、なをむまると信じて、小罪(しょうざい)をもをかさじとおもふべし。 罪人なをむまる、いかにいはんや善人をや。行(ぎょう)は一念十念むなしからずと信じて、無間(むけん)に修(しゅ)すべし。 一念なをむまる、いかにいはんや多念をや。阿弥陀仏は、不取正覚の詞(ことば)を成就して、現(げん)にかのくににましませば、さだめていのちをはらん時には来迎(らいこう)し給はんずらん。 釈尊はよきかなや、わがをしへにしたがひて生死(しょうじ)をはなれんとすと知見し給(たま)ふらん。 六方の諸仏はよろこばしきかな、われらが証誠(しょうじょう)を信じて、不退の浄土に往生せんとすとよろこび給(たま)ふらんと。 天にあふぎ地にふして、よろこぶべし、このたび弥陀の本願にあへる事を。 行住坐臥にも報(ほう)ずべし、かのほとけの恩徳(おんどく)を。 たのみてもなをたのむべきは乃至(ないし)十念の詞(ことば)。 信じてもなを信ずべきは必得(ひっとく)往生(おうじょう)の文(もん)なり。
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