「自然」(ピュシス)と「社会法習」(ノモス)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 00:22 UTC 版)
「ゴルギアス (対話篇)」の記事における「「自然」(ピュシス)と「社会法習」(ノモス)」の解説
そこでカリクレスが話に割り込む。ゴルギアスは他者への遠慮・配慮ゆえに「正・不正も教える」とあえて述べてしまったものだから、ソクラテスに揚げ足を取られ、同じようにポロスも遠慮して、「不正を行うことは醜い」と述べてしまったものだから、ソクラテスに揚げ足を取られてしまったと指摘。そして、ソクラテスは真理を追求すると称しながら、実はそうして相手が人情ゆえにはっきりと言いづらい部分に漬け込んで、相手に足枷をかけているだけだと指摘。 「自然」(ピュシス)と「社会法習」(ノモス)は相反するものであり、「社会法習」(ノモス)に遠慮して発言すれば、矛盾したことを言わざるを得なくなる、そのことをソクラテスはよく心得ていて、相手が「社会法習」(ノモス)の話をすれば、「自然」(ピュシス)の話を持ち出し、相手が「自然」(ピュシス)の話をすれば、「社会法習」(ノモス)の話を持ち出して矛盾を引き出しているだけだと。 議論はそのまま、ソクラテスとカリクレスの問答に移行する。
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「自然」(ピュシス)と「社会法習」(ノモス)
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「ゴルギアス (対話篇)」の記事における「「自然」(ピュシス)と「社会法習」(ノモス)」の解説
本篇では、カリクレスによって、当時流行していた「自然」(ピュシス)と「社会法習」(ノモス)を対置させる考え方が、提示される。 カリクレスは、「社会法習」(ノモス)の虚構性・欺瞞性と、「強者・有能者による支配」の妥当性を指摘するために、「自然」(ピュシス)の論理を称揚するが、 思慮と勇気を併せ持った強者・有能者にとっての「有益な快楽」の目的である「善」 こそが目指されるべきであり、それを見極める「技術」が必要だという点では、「自然」(ピュシス)も「社会法習」(ノモス)も一緒であることが、ソクラテスによって露わにされる。 ちなみに、中期対話篇『国家』の第1巻においても、中心的な対話者であるトラシュマコスによって、類似した「強者の論理」が述べられているが、本篇のカリクレスの主張が「規範論 (べき論)」寄りなのに対して、『国家』第1巻のトラシュマコスの主張は「実態論 (である論)」寄りであるという僅かな違いがある。
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