「大門山」をはじめとする呼称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 03:37 UTC 版)
「大門山」の記事における「「大門山」をはじめとする呼称」の解説
この山は人里から非常に目立つ存在のため、古くから認識されていたはずだが、いつごろから「大門山」と呼ばれるようになったか定かでない。文政4年(1821年)測量の往来道図には既に「大門山」の名が記されている。また二十万分一輯製図『金澤』陸地測量部(明治21年(1888年)輯製)にも「大門山」の名が記されている。 『石川県石川郡誌』によると、大門山は2つの小峰からなり、南側を「岩戸山」、北側を「高舂山」という、とある。一方、天保元年(1830年)頃成立したとされる『加能越三州地理志稿』では、「岩戸山」・「大門山」・「高舂山」は独立した山として記述され、明治初期に成立した『皇国地誌』では、「岩戸山」は大門山の一部のような記述となり、「高舂山」は大門山の北に接する別の山となっている。今日では、高舂(たかうす)山=多子津山と考え、岩戸山=赤摩木古山と考えることが多いようである。 また昭和初期の『石川郡誌』によると、周囲の山々の呼称は、現在(地形図の表記)と若干異なっていた。県境上、南に続く赤摩木古(あかまつこ)山は、赤摩不古山(あかまふこやま または あかまつこやま)と呼ばれた。県境上、北に続く赤堂山・月ヶ原山等は、百山(ももやま)と総称され、その内訳として阿咸堂(あかんどう)、尻高、赤目缼(あかめがけ)、地獄、矢代(やしろ)、等と呼ばれていた。「百山」の呼称は、文政年間の測量図にもある。昭和初期に「百山」の呼称が残っていた一方で、五万分一地形図『西赤尾』陸地測量部(明治42年(1909年)測図)には「百山」の呼称が反映されておらず、これは現在の地形図も変わっていない。そのためか「百山」の呼称は今日では忘れ去られてしまったようである。 山名の由来は「聖なる白山に向かっての尾根の入口にある大きな門」であるとする説と、白山越中禅定道の入口の「大門」とする説がある。
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