「フィクサー」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 14:46 UTC 版)
児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げていた。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた辻嘉六に勧められて、1946年初頭、逮捕される直前に、この資金の一部を自民党の前身にあたる鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。 1949年(昭和24年)、児玉は巣鴨拘置所から釈放されると北海道炭礦汽船の幹部、萩原吉太郎邸に「戦前、右翼の領袖から紹介してもらった」として訪問した。萩原は児玉機関の話を聞いており訪問に難色を示したが、児玉は萩原邸の裏の池で釣りをするという名目で毎朝通い始め、話をする機会を持つうちに次第に付き合いが深くなっていったという。 1950年、北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ。G2と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた岡村健次が大きな役割を果たすことになる。
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