「ツール・ド・フランス産みの親」との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/21 03:46 UTC 版)
「アンリ・ペリシエ」の記事における「「ツール・ド・フランス産みの親」との確執」の解説
1921年頃、アンリとフランシスのペリシエ兄弟が向こう最低5年間はツールに最大限注力するが、その代わりに所属チーム(オートモト)に対し報酬のアップを要求したところ、その要求を拒まれたことから、チームには所属しないという手段に出た。この手段に対し、ツール・ド・フランス産みの親として知られるアンリ・デグランジュが激怒。ペリシエの行動に対してロト紙上で痛烈な批判記事を展開。1923年のツール前には、「奴らは絶対にツールでは勝てない」とまで言い放った。 しかしながらアンリはその年のツールを制覇した。この際アンリは、「これまで俺たちをサーカスの猛獣のように扱いやがって!」と真っ向からデグランジュを非難。さらに翌1924年のツールでは抗議の姿勢を示すため、マイヨ・ジョーヌを身に着けず、別に持ってきたジャージを着用してレースに出た。結局この年、アンリは第3ステージにて棄権。翌1925年のツールにも出場したものの、第4ステージで棄権。また1925年はアンリが出場した最後のツールとなった。
※この「「ツール・ド・フランス産みの親」との確執」の解説は、「アンリ・ペリシエ」の解説の一部です。
「「ツール・ド・フランス産みの親」との確執」を含む「アンリ・ペリシエ」の記事については、「アンリ・ペリシエ」の概要を参照ください。
- 「ツールドフランス産みの親」との確執のページへのリンク