陳 (南朝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/05 13:22 UTC 版)
社会
国力・地勢
陳は叔宝の悪政が結果的に滅亡の一因を成したが、それ以外ではやはり国力の弱小が挙げられる。陳は建国当時既に四川や襄陽・江陵など要地を失っていた[3]。また陳は長江という天然の要害を利用して存続していたが、四川や襄陽を失っていたことは長江上流の地から攻撃を受けた際に脆弱な防備体制しか無いということであり[2]、隋の文帝は北方より収穫の早い南方の弱点を突き、常に収穫期に戦争を起こして陳の国力を疲弊させ、このために滅亡時には安蜀城を守った顧覚や公安を守った陳紀が隋軍を恐れて逃げ出したように巴陵より東を中心にほとんど抵抗力は残らなかった[3]。
皇帝・貴族
梁末期の侯景の乱により建康など江南の主要都市の大半は戦火により荒廃したが、これにより華北から亡命して江南に成立していた貴族の上部構造は完全に壊滅した[4]。またこのような混乱期に江南では各地で群雄が割拠したため、陳霸先は彼らと婚姻関係や親類関係を結んで懐柔策に出ている[4]。姓が同じというだけで陳宝応を皇族と認定してその子女に大小の爵位を与える恩典まで授けたため、陳の皇帝権力は非常に弱かった[5]。
文化
国力は脆弱だったが、後主の時代には文化が爛熟し、六朝文化の粋として隋や唐の文化にも影響を与えた。ただし陳が滅亡した際、隋により首都建康の建造物や文化の象徴たるものは悉く破壊された[3]。
陳の皇帝一覧
先史時代 | |||||||||||
三皇五帝 (古国時代) |
(黄河文明・ 長江文明・ 遼河文明) | ||||||||||
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魏 (東魏) | |||||||||
陳 | 梁 (後梁) |
周 (北周) |
斉 (北斉) | ||||||||
隋 | |||||||||||
唐 | |||||||||||
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宋 (北宋) |
夏 (西夏) |
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宋 (南宋) |
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元 | |||||||||||
明 | 元 (北元) | ||||||||||
明 (南明) |
順 | 後金 | |||||||||
清 | |||||||||||
中華民国 | 満洲 | ||||||||||
中華人民 共和国 |
中華 民国 (台湾) | ||||||||||
- 高祖武帝(陳霸先、在位:557年 - 559年)
- 世祖文帝(陳蒨、在位:559年 - 566年)
- 廃帝臨海王(陳伯宗、在位:566年 - 568年)
- 高宗宣帝(陳頊、在位:568年 - 582年)
- 後主(陳叔宝、在位:582年 - 589年)
系図
(追)景帝 陳文賛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
始興王 陳道談 | (1)武帝 陳霸先 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)文帝 陳蒨 | (4)宣帝 陳頊 | 衡陽王 陳昌 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)廃帝臨海王 陳伯宗 | 始興王 陳伯茂 | 新安王 陳伯固 | 衡陽王 陳伯信 | (5)後主 陳叔宝 | 始興王 陳叔陵 | 長沙王 陳叔堅 | 晋熙王 陳叔文 | 岳陽王 陳叔慎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
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