野村素介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 09:11 UTC 版)
この記事には複数の問題があります。 |
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
幕末期
1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。
1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。攘夷を唱え勤王志士として国事に奔走。四境戦争では当初、藩主側近として働き、小倉城陥落後は九州方面の軍監を命ぜられ参謀 前原彦太郎(後の前原一誠)とともに講和談判などの戦後処理にあたった。
明治期
1868年(明治元年)に山口藩参政 兼 公議人 兼 軍政主事となり、翌年には権大参事となる。1871年(明治4年)官命によりヨーロッパ諸国を視察する。翌年3月に帰国すると茨城県令、文部大丞、学務局長、大督学、文部大書記官、元老院大書記官を歴任し、1881年(明治14年)11月には元老院議官となる。さらに博物局長兼務、亜細亜大博覧会組織取調委員、内国勧業博覧会委員、同評議員などを命ぜられる。
1890年(明治23年)に貴族院が発足すると同年9月29日に勅選議員に任命され[1]、同年10月20日、錦鶏間祗候となる[2]。1900年(明治33年)にはこれまでの功績を認められ男爵を叙爵。
大正・昭和期
1927年(昭和2年)12月23日に東京上大崎長者丸の自宅にて没。享年86。勲一等旭日大綬章を授与される。
書家として
晩年は素軒の号で書家として活躍。日本書道会幹事長、書道奨励会会頭、選書奨励会審査長などを務めた。
行書を得意とし各地に筆跡が残されている。石碑も多くを手がけ、京都霊山護国神社の木戸公神道碑、上宇野令香園の毛利公神道碑といった勅撰碑のほか、全国で40基ほどを確認できる[3]。
同じ長州出身の書家、杉聴雨、長三洲と合わせて「長州三筆」と呼ぶことがある。「明治の三筆」の一人に数える文献もあるが「明治の三筆」と言えば日下部鳴鶴・中林梧竹・巖谷一六の3人を数えるのが一般的。
栄典
- 位階
- 勲章等
- 1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章[6]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[7]
- 1890年(明治23年)11月1日 - 藍綬褒章[8]
- 1900年(明治33年)5月9日 - 男爵[9]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等瑞宝章[10]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[11]
- 1927年(昭和2年)12月23日 - 旭日大綬章[12]
- ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
- ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
- ^ 林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「野村素軒石碑一覧表」(勝山城博物館 2017年)
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第2205号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 藍綬褒章下賜」1890年11月4日。
- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第300号「叙任及辞令」1927年12月27日。
- 野村素介のページへのリンク