芹洋子
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来歴
八尾市立清友高等学校(後の大阪府立清友高等学校、2010年3月閉校)卒業。
小学4年の頃からTVに出演、ポリドール歌謡コンクール(小学6年)、NTV「ホイホイミュージックスクール」(中学3年)で好成績を残した。
1969年ビクターより『野に咲くバラのように』でメジャーデビュー。1970年からNHKテレビ『歌はともだち』に登場、1972年、キングレコードに移籍、『牧歌〜その夏〜』で再デビューした。1974年には、北海道の広尾線(現在は廃線)の愛国駅から幸福駅の区間にちなんだ『愛の国から幸福へ』がヒット。以降『四季の歌』(ミリオンセラーを記録[2])、『赤い花白い花』、『坊がつる讃歌』と順調にヒットを飛ばし、1978年の「第29回NHK紅白歌合戦」(歌は「坊がつる讃歌」)にも出場した。
1979年に発表された新しい山口県民の歌「みんなのふるさと」やゴールデンウイーク期間中、最大級の集客がある「ひろしまフラワーフェスティバル」のテーマ曲「花ぐるま」は、40年近く歌い継がれ親しまれている。
1982年の『おもいでのアルバム』はNHK「みんなのうた」でも登場し(ただし『おもいでのアルバム』は元々1959年に『増子とし全集』(フレーベル館)で発表された楽曲であり、芹洋子の歌によるものはリメイク版)、保育園等の卒園ソングとしてヒットした。
また『コマーシャルソング女王』としても知られ、今日まで歌ってきたコマーシャルソングは曲は600曲以上。「ハウスプリン」、歯磨き粉「ホワイト&ホワイト」等、初代のコマーシャルソングを担当したものも多い。
1979年、憲法及び地方自治法の施行30周年を記念して制作された国分寺市の歌(作詞:渡辺登、補詞:山本和夫、作曲:笠原勤、編曲:管野光亮)の歌唱を担当。
1983年、大阪市営地下鉄開業50周年記念ソング『地底のランナー』(作詞:島田洋子・作曲:キダ・タロー)を発表。
同じく1983年、日野市制施行20周年を記念して制作された日野市歌『緑のまち』(作詞・作曲:日野市中学校教育研究会音楽部会、編曲:佐藤亘弘)の歌唱を担当。
1984年、川崎市制施行60周年を記念して制作された川崎市民の歌『好きです かわさき 愛の街』(作詞:肥後義子、作曲:山本直純)の歌唱を担当。
『坊がつる讃歌』は広島高等師範学校(現広島大学)山岳部の部歌であったものが九州の山岳愛好家の間に広がったものである。芹は阿蘇山麓の野外コンサートに出演した際この曲を教えられて大いに気に入り、「みんなのうた」で歌った(1978年(昭和53年6月〜7月))。
1981年には 日中文化交流音楽大使として北京公演を行い(日本人の歌手では初)、以降中国公演は12回に及ぶ。またこの年所属プロダクション社長と結婚した。
その翌年、長女を出産。その長女伊東亜美は現在、芹のマネージメントを担当。マネージメント業の傍ら2015年に役者活動も行なっていたが現在は芹のマネージャー業に専念。芹のスケジュールや日常等をアメーバブログ及びTwitter、Facebook、Instagramで発信している。
1992年、交通事故により外傷性クモ膜下出血となり、意識は回復したものの逆行性健忘を生じ自身が歌手であったことや持ち歌すべての記憶を失う。しかし懸命のリハビリによって歌手として復帰。2008年5月、胡錦濤国家主席来日時、公にこそされていないが胡主席、芹洋子、所属事務所代表伊東佳男、長女・伊東亜美との対談が実現。
2011年よりニッピコラーゲン100のCMに起用され、2012年は現在新バージョンもOA。
現在、スカイツリーの見えるホテルとして人気の「東武ホテルレバント東京」で定期的に、「うたごえ喫茶〜芹洋子と歌おう」を開催。
2017年8月14日 夫であり長年 芹洋子の所属事務所社長だった伊東佳男が肝臓癌の為 他界。享年83歳。
同年 所属事務所をサンミュージックプロダクションに移籍。
現在は歌手活動の他テレビ・ラジオ番組への出演を積極的に行っている。またテレビ番組出演の際にはスチームパンクファッションで登場し、自身も新たに参入したハンドメイドアクセサリー部門で活動している作家達のアクセサリーを身に着けるというイメージチェンジに挑戦。 スチームパンカーやハンドメイドアクセサリー界隈から支持を受けている。
注釈
出典
- ^ 「映画情報 39(5)(261);5月号」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ “芹洋子さんの透き通る歌声に魅了 ささらサロンで披露”. 福井新聞ONLINE (2018年9月9日). 2020年8月6日閲覧。
固有名詞の分類
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