満奇洞
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概要
江戸時代末期の天保の初年に発見された[14][注 1]。当時の洞口は現在よりもっと小さく直径33 cm(センチメートル)で[17]、
岡山県の鍾乳洞ではもっとも早く存在が認知されたといわれ[26]、新見市内の洞窟群の中でも早くから開発が行われた[27][10]。岡山県の天然記念物に指定されている[28]。
地質
満奇洞が分布する阿哲石灰岩は連続する秋吉帯の秋吉石灰岩や帝釈石灰岩と同様に陸源砕屑物を全く含まないため、約3億年前に赤道付近の太平洋の海山が海溝で崩壊しつつ海山周縁部と頂部に衝上断層で二分された巨大ブロックとして付加体中に取り込まれたものであると考えられている[29][22]。阿哲石灰岩は小型有孔虫やコノドント、フズリナ化石に基づいて下位から順に名越層、小谷層、岩本層、正山層、槇層の5層に区分される[29]。また、阿哲石灰岩にはこれとは別に北部相と南部相に区分され、前者は石灰質礫岩やチャートを頻繁に挟み、海山の礁周縁部に堆積したと推測され、後者は塊状石灰岩からなり、海山頂部の礁中央部に堆積したと推測されている[29]。
満奇洞が開口する槇付近には層厚65 m(メートル)程度、最大層厚100 m の湯川層群槇層が分布する[30][31]。槇層では南部相と北部相の差は不明瞭で、主に石灰岩礫岩から成り、上位の寺内層(砕屑岩層)との境界付近ではチャートを挟む[31]。
岡山県道50号線から槇に至る県道320号線との合流地点の手前には石灰岩が100 m 以上にわたって露出している[20]。これは石灰岩のみからなる石灰岩礫岩で、礫の淘汰は悪く、数 cm から20 cm 程度の角礫からなる[20]。堆積時代は中期ペルム紀で、礫として含まれる石灰岩には石炭紀やペルム紀初期など、堆積時より古い様々な年代の紡錘虫化石を含む石灰岩が多く含まれる[20][31]。槇層は Neoschwagerina douvillei Ozawa, 1925 の存在により特徴づけられる[32][33]。
また、阿哲台や帝釈台における鍾乳洞の形成は河岸段丘の発達と同質の現象であると考えられており、佐伏川沿いやその周囲の洞窟は河床面からの比高により6つのグループに分けられる[34]。阿哲団体研究グループ (1970) では、満奇洞は高梁川沿いの井倉面(比高 20–25 m)[注 3]と対比され、第四紀(下末吉期)の約20万年前に相当すると考えられている[13][35]。滝田 (1972a) では満奇洞は土橋の穴や二ツ木の穴とともに、そのうち標高350–370 m のグループ(a)に属するとされる[34]。このグループは高梁川沿いの[34]。このグループは豊永佐伏にある佐伏本村の段丘地形や橋の段丘地形と同レベルであるとされ、多摩期以前の新第三紀の礫層を切る谷に発達し、第四紀初期であると考えられている[34]。高梁川沿いの標高290 m のグループ(A)に対比される[34]。
洞内の構造
洞口は4 m×1.5 m で[4]、大字赤馬の槇集落の山腹に開口する[14][15]。総延長は約450 m、最大幅は約25 m で、閉塞型の平面に発達した迷路に富む横穴となっている[4][2][27]。現在流水はないが、吐出穴である[2]。二次生成物が発達しており[10]、柴田晃により、護王の穴、ダイヤモンドケイブ(磐窟洞)とともに岡山県を代表する美の三大鍾乳洞に数えられる[2]。
洞口から2–3 m 進むと、「千畳敷」と呼ばれるホール(広い空間)がある[14]。ここは現在、洞内休憩所として利用されている[36]。「洞門[24][36](石門[14])」と呼ばれる部分を越すと、さらに別のホールがある[14]。この部分周辺には「銀の幕」、「五重の塔[37][24](五重塔[14])」、「唐獅子」などと呼ばれる生成物がある[14]。ホール左側から千畳敷にループしている空間は階段があり「二階」と呼ばれる[14]。ホールから狭い通路を抜けると、大きな通路に至り、「炭釜」や「傘石」がある[14]。この部分から右の支洞に入ると、「仁王の脚[24][36](二王の脚[14])」、「あみだ石[36](阿彌陀石[14])」、「臥牛」などの二次生成物が見られる[14]。
大通路の奥に進むと、鍾乳石が発達し景色に富む狭い空間があり、そこを越えると日本屈指のリムストーン(畦石、石灰華段)があり「千枚田(鬼の田[14])」と呼ばれる[4][2][27][38]。また、千枚田付近には「大黒柱[38](大国柱[14])」と呼ばれる石柱があり、「鬼の手水鉢」、「鬼の水道」がある[14]。続いて、脚や尾がある亀が蹲っているように見える「亀石」があり、「泉水」と呼ばれるプール(地底湖)が水を湛える[11][14]。
右側に進むと「鬼の居間」と呼ばれる二次生成物に富む空間が続き[14][7]、少し進むと大小の石柱が林立し格子窓のように見え、「吉原[39](吉原格子[14][37])」と呼ばれる[14]。これを過ぎると「東の大川」があり、洞右奥にある「奥の院」も二次生成物が発達する[14][7]。奥の院にある生成物は「五百羅漢」に喩えられる[14]。
泉水から左側に伸びるプールは「入海」と呼ばれる[14]。入海には大黒柱に大鏡をかけたようであると表現される「鏡石[36](化粧鏡石[14])」や、「釣鐘[24](釣鐘石[14])」と呼ばれる生成物が見られる[14]。洞奥の巨大なホールには無数のつらら石が発達し、水晶宮や瑠璃殿[注 4]に喩えて「竜宮(龍宮[14])」と呼ばれる[4][2][14]。竜宮にはケイブコーラル(洞窟珊瑚)も多くみられる[40]。また、白糸をかけたようであると表現される「華厳の滝」と呼ばれるフローストーン(流れ石)もある[14]。
洞内を通して、つらら石や石柱、フローストーンだけでなくほとんどの二次生成物が観察でき、石筍、カーテン(幕石)やベーコン、ストロー(鍾乳管)、ヘリクタイト(曲がり石)、ヘリグマイトなどが見られる[2][27][7][41]。その変化に富む様子から「洞窟の博物館」と評される[2][22][42]。これらの二次生成物には人間活動の影響で煤の付着が見られるものもある[7]。
洞内には断層がみられるが、つらら石やフローストーンにより被覆されている[43]。「夢の宮殿」では断層が2本交錯しており、断層の鏡肌や断層角礫が確認できる[2][27]。
一般に、鍾乳洞内の気温は一年を通して一定である[44]。これは洞内には太陽光線による熱が届かず、そこに流れる地下水の温度の影響を受けるためである[44]。地下水の温度はその地域の平均気温とほぼ同じであり[44]、満奇洞内の気温はほぼ一定で、平均13 ℃程度の適温が保たれ、夏は涼しく、冬は暖かい[17][注 5]。洞内にあるプールは停水のみで流水はない[4][2]。
また満奇洞は洞窟系の発達段階について、前述の河岸段丘だけでなく、洞内のノッチ(溶蝕溝)についても研究が行われている[39]。洞内にはノッチが発達し、よく保存されている[2]。満奇洞の水平天井はある1つの横穴形成期(レベル)にできたもので、洞内のノッチと同質のものであると考えられている[39]。満奇洞の天井は大きく5つの比高に区分され、洞口の水準を0 m として、そこから約150 cm、約250 cm、約350 cm、約550–660 cm、そして割れ目(クラック)に沿う高い天井が認識される[39]。割れ目に沿う高い天井は洞窟の形成初期にできたもので、地下水面の不安定な時期のものであると考えられる[39][45]。そして残りは安定水面により形成された水平天井とそこに二次生成物が覆い基質の石灰岩が見えなくなった天井であると考えられる[39][45]。最も高い水平天井は「竜宮」から「夢の宮殿」、「奥の院」を経由し「吉原」に至る観光洞最奥部と「五重の塔」付近の入口のホールにあり、最も古いと考えられる[39][37]。泉水の手前に最も低い190 cm 以下の天井があることから、これらの高い水平天井は独立に形成されたと推定されている[39][33]。
注釈
- ^ 赤木 (1933:16) 原文「大字赤馬、槇部落の山中にあり。天保の初年赤馬の狩人狸を追ひつめた際發見したりと傳ふ。」。年表では嘉永6年とされるが[16]、本文の『備中誌』引用部分には『嘉永六年著備中誌解題赤馬の條に「鐘乳。十四五年前阿賀郡赤馬の狩人二人或日狸を追ふ。狸草深き所へ迯入しが其草をわけて大なる穴有村人も知らざりし穴也。…」』とあり、前者が正しい。
- ^ 赤馬の名は後醍醐天皇の隠岐への配流に縁があるとされる[18]。
- ^ 滝田 (1972a:27–33) における C グループ
- ^ 「白亜の殿堂」、「玻璃宮」のような表現も見られる[26]。
- ^ 15 ℃ 前後とも[28]
- ^ 豊永佐伏の字。槇のある豊永赤馬より少し南に位置する。「本村」の名は台地開拓の本拠地に形成された集落の意と言われる[46]。
- ^ 石川 (1955:16–22) ではフトケヤスデ属の一種 Tokyosoma sp. として。
出典
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