本庄城 (武蔵国) 本庄城 (武蔵国)の概要

本庄城 (武蔵国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/15 04:35 UTC 版)

概要

石垣の城ではなく、畿内の近世城郭のような天守も存在しなかった。本庄宮内少輔実忠古河公方家を迎え撃つために、弘治2年(1556年)に構築し、元の本拠地であった東本庄館から移動した。ただし書籍などによって築かれた目的は異なり、見解は諸説ある。永禄10年(1567年)に北条軍に攻められ落城させられるも、本庄氏は降伏し、後北条方に服属することで城を回復した。[1]天正8年(1580年)、実忠の死後に家督を継いだ本庄隼人正近朝が城主となった。天正18年(1590年)に後北条氏傘下として豊臣秀吉と対立し、小田原城へ籠城するも開城に際して自害した。同年5月27日には本庄城も落城しており、鎌倉時代から本庄の地を支配してきた武蔵国の本庄氏は滅亡した。本庄氏による本庄城在城期間は、2代合わせて34年である。


範囲と地理

『児玉記考』によると、「本庄氏滅亡の前は大池形をなせる地をはさんで左右に城郭を構え」とある。この凹地とは、久城堀である。本庄城は、当初、久城掘りの東側から現在の本庄自動車学校付近までの大規模な範囲にあった。本庄城址は、現在の本庄3丁目5番の城山稲荷神社の周辺(久城堀西側)を指すが、この辺り一帯だけではなかった。本庄城址とされる地域は、段丘崖沿いに堀割り状の凹地が多く、自然の要害地としての立地条件を満たしている土地であった。城の守護神については、椿稲荷明神(つばきのいなり みょうじん)であり、長峯付近にあったとされる。

城の北の崖下には小山川が流れ、東の地は窪んでおり、西の地はまた少し土地が高く、南は宿(城下町)の裏に続く。元の本拠地であった東本庄館より北方に位置し、より国境に近い位置に築かれた。実忠は戦国乱世の中で天寿を全うすることができたが、近朝の代には本庄の地理上、有力な列強大名達の板挟みされる状態となった。


城下町が形成されるに至るまで

実忠が本庄城を築いたのは60歳前後の時であった。100年近く本庄氏が本拠地としていた東本庄館を去り、一から城下町を築いていった。『徳川時代之武蔵本庄』(諸井六郎著)によると、弘治2年(1556年)の頃は、まだ城下町として完全には成しておらず、野原中に12の農家の散在と利根川沿岸の花の木・本宿・籠瀬(現在の台町永峯付近)に十数戸の民家が存在したに過ぎなかった、とある。古老の伝えでは、花の木18軒の古百姓は、本庄氏が築城して土着する以前から在住していた者達であったという。弘治・永禄年間の頃(1555年 - 1570年)より、戸谷・諸井・森田・内田・田村などなど、新田氏の遺臣を本庄村に移住させ土着させることにより開墾が進み、本庄氏が没落した天正18年(1590年)の頃には、城下町の大きさは15町50間となり、農家が38軒にまで達した。約2、30年の間に城下町が形成されたことが分かる。

近世本庄城(小笠原氏本庄城)

天正18年8月、徳川家康に旧北条領が与えられ、その家臣である信州松尾小笠原掃部大夫信嶺が9月に本庄一万石を配領した。小笠原氏により本庄城は改築され、信嶺の養嗣子となった信之により、本庄藩が立藩することとなる。この頃の本庄城の城下町は15町50間、農家が38軒あった。しかし慶長17年(1612年)に本庄藩は廃藩となり、本庄城も廃城となった。小笠原氏の城下町としての歴史は22年足らずであった。その後の8年間は旗本四家が分割支配した。残された城下町は整備され、後世、中山道において有数の規模の宿場町となる本庄宿が形成されていくこととなる。


範囲について

現在一般的に本庄城址と言えば、こちらの近世の本庄城の方を指す。元禄13年(1700年)の検地帳に三町四反五畝二十九歩あったと記録されており、約34300m2に相当する。これはおよそ東側の台町八坂神社付近から現在の本庄市役所周辺の規模に当たる。南の円心寺は慶長14年(1609年)に小笠原氏が圓心房を呼び、開山させている。また、西方の開善寺[要曖昧さ回避]は小笠原氏の菩提寺であるから、城に関する領域はもっと広かった可能性もある。


城郭・堀などの位置について

検地帳を参考にすると、本丸の位置については、城山稲荷神社の南西部一体と推定される。現在の本庄市役所との間である。この部分を東西・南にコの字形にめぐるが存在した。西の堀は「一の谷」と呼ばれていた。さらに、一の谷の西にも堀が存在し、一つの郭を作っている事が発掘調査で判明している。これが西郭とされる。一方、本丸東の堀より東で八坂神社までは、三方がとなり、出丸的な施設と推定される。東郭と仮称されている。本丸之内大手東とは、本丸内の大手の東を示し、城山稲荷神社の参道と東掘の間とされる。本丸大手西方は、参道と市役所の間で、面積の上からもほぼ整合する。したがって、城の正面入口の大手門は参道付近にあったとみられる。浄土裏は、南方の円心寺が浄土宗であることから、その裏を示すものと考えられる。現在の墓地と西郭の間の敷地は、検地帳の面積とほぼ合っている。土取場下や土取場南方は、一段低い部分を示すから、東郭の南一帯に当たると考えられる。坂下と坂下北之方は、本丸の北が神社と元小山川の崖であるから、東郭の北一帯を指す。その他にも、堀潟、北久保、橋場、堰場上などの地名が見え、これが小笠原氏本庄城の範囲である。

この小笠原氏本庄城も、石垣ではなく、崖を利用し土塁を築き、板塀と櫓を構えてはいたが天守は無く、本丸にあった館は今日のお寺の本堂のような形であったと見られ、つまり典型的な戦国期関東の城郭形式であったと見られる。正直に言うと、丁度1万石の小大名としては適度なものである。


  1. ^ 立地上、どちらの軍にとっても攻略のための最前線の地であった


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