範囲と地理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/25 22:09 UTC 版)
『児玉記考』によると、「本庄氏滅亡の前は大池形をなせる凹地をはさんで左右に城郭を構え」とある。この凹地とは、久城堀である。本庄城は、当初、久城掘りの東側から現在の本庄自動車学校付近までの大規模な範囲にあった。本庄城址は、現在の本庄3丁目5番の城山稲荷神社の周辺(久城堀西側)を指すが、この辺り一帯だけではなかった。本庄城址とされる地域は、段丘崖沿いに堀割り状の凹地が多く、自然の要害地としての立地条件を満たしている土地であった。城の守護神については、椿稲荷明神(つばきのいなり みょうじん)であり、長峯付近にあったとされる。 城の北の崖下には小山川が流れ、東の地は窪んでおり、西の地はまた少し土地が高く、南は宿(城下町)の裏に続く。元の本拠地であった東本庄館より北方に位置し、より国境に近い位置に築かれた。実忠は戦国乱世の中で天寿を全うすることができたが、近朝の代には本庄の地理上、有力な列強大名達の板挟みされる状態となった。
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