昭和金融恐慌 三月の恐慌

昭和金融恐慌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 04:44 UTC 版)

三月の恐慌

3月始めに憲本提携が暴露され、その目的が政権維持にあるとわかる[注 27]と、立憲政友会は態度を硬化させた。田中は人を介して片岡に以後の協力が出来ない旨を伝え[5]、既に内閣弾劾上奏案を取り下げており、改めて提出することができないことから、それ以後立憲政友会は震災手形関係二法を政争の具として攻撃にまわった。この時、具体的に震災手形の内情を把握し、その情報を流して攻撃材料を提供したのは財界であるといわれる。

憲政会は当初震災手形関係二法の目的をあくまでも金融の安全を図るためと説明したが、立憲政友会はかねてから震災手形に関わる日銀特融が実質的には特定の政商[注 22]の救済策として用いられているという疑惑を指摘し、これを「政財の癒着」と攻撃して不良債権の具体的内容と金額を示すことを要求した。そして、本法案の目的の実際が鈴木商店への多額の貸し出しを焦げ付かせた台湾銀行の救済にあり、ひいては鈴木商店を援助することにある旨を明らかにするように迫った。

早期の法案成立を目指す与党憲政会は震災手形の内情について少しずつ明らかにし、のちには貴族院において秘密懇談会を開いて具体的な内容と法案の真意を野党側に伝えて法案成立への協力を求めたが、この内情が報道機関に伝わり国民の知るところとなった[5]。かねてから震災手形の内容について台湾銀行が多くの震災手形を持つこと、そして台湾銀行と鈴木商店の癒着ぶりが巷間でも噂されていたが、これが真実と分かり、かつ具体的な不良手形の額として震災手形2億円強のうち台湾銀行が約1億円で、その7割を鈴木商店関連のものが占めていることが明らかとなり経済的危機が一層の真実味をもって受け取られ、円高による景気低迷と相まって不安は一層増した[5]

片岡蔵相の失言

3月14日、衆議院予算委員会にて審議の始まる直前、当日の決済のための資金繰りに困り果てた東京渡辺銀行の渡辺六郎専務らが午後1時半頃に大蔵次官田昌(でん あきら)に陳情し、「何らかの救済の手当てがなされなければ本日にも休業を発表せざるを得ない」旨を説明した。田は対応を片岡蔵相に相談すべく議場に赴いたが審議中で直接会えず、事情を書面にしたためて片岡に言付けた。なお、渡辺らは救済を求める意図で陳情したが、大蔵省の側では従前の調査で内情が悪い事を把握しており、休業の報告に来たものと理解していたという。実際に田は予算委員会審議室に向かうに際して原邦道事務次官を渡辺らに紹介し「銀行休業の善後策」につき手続き等を相談する様に指示している。

一方で東京渡辺銀行は大蔵省からの助力を得る見込みが立たなかったので改めて金策に走り、第百銀行からの融通を引き出して資金を手当てすることに成功して当日の決済を無事に済ませた。その旨を大蔵省にも電話で伝え、原がその知らせを受けたが、田は既に議場に赴いており、すぐには伝わらなかった。

予算委員会では野党が震災手形処理方法も絡めて苦境に陥っている銀行の処理策を問いただし、震災手形を抱える不良銀行や、業績の悪い企業の名を明らかにするように求めた。

これに対し、個々の企業の状況を明かすことは信用不安につながると危惧した片岡蔵相は、次官から差し入れられた書面にあった東京渡辺銀行支払停止の情報(正午に支払いを停止した旨と、預金残高等の情報が書面に記載されていた)を交え、破綻した銀行については財産を整理して引受先を見つけて統合する手続きを大臣の責任において着実に行う旨の回答にとどめたが、その中で直近の破綻銀行を例示するにあたり、

・・・現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました、是もまことに遺憾千万に存じますが・・・

と発言した。

ここであえて具体的に破綻銀行の事例について触れたのは、いたずらに原理原則論をもって審議を長引かせることは対応を遅らせ、このように銀行を破綻に追いやり状態を悪化させる結果になる、という牽制の意図から出たという指摘がある。

一方で、片岡に付き添っていた大蔵省文書課長の青木得三は議場から大蔵省に戻って東京渡辺銀行の金策がついたという報告を受け、同行に電話をかけて平常通り営業を続けていることを確認した。青木は片岡の発言が誤っていたことを知り、これが報道されるのを防ぐべく、報道差し止めの権限を持つ内務省警保局長の松村義一にかけあったが、松村は片岡がそのような発言をした以上はこれを差し止めることは出来ないとして要請を拒否した。こうして片岡の「東京渡辺銀行破綻」発言は翌日報道された。また、議会でのやり取りを直接伝え聞いた預金者が終業間際の東京渡辺銀行に殺到し、取り付け騒ぎが起こった。

翻って「破綻を宣告」された東京渡辺銀行の渡辺六郎専務は、蔵相官邸に赴いて片岡の発言が間違いないと確認すると笑みを浮かべたという[注 28]が、異説には、その専務の人柄から言ってそれはありえないとも言われ、片岡もそれには疑問を抱いている。

いずれにせよ、東京渡辺銀行の首脳陣は同夜に姉妹行のあかぢ貯蓄銀行共々翌日から休業することを決定した。依然危機的経営状況を脱しておらず、早晩休業は避けられないところであり、蔵相の失言にかこつけて休業し、その責任を転嫁したのだと受け取られている。

直後より「いまだ経営している銀行について破綻を宣告し、混乱を招いた」ことについて新聞報道は片岡の発言を「失言」と取り上げ、野党も「休業するつもりの銀行が金策に走るのは不自然」などと指摘して「失言」で銀行を破綻に追い込んだと攻撃した。しかし、片岡はあくまでも「14日に渡辺銀行が休業の報告に来た」とする態度を貫き、のちにこれを裏付ける同行専務直筆の顛末書を示して事態の収拾を図った。なお、この直筆の顛末書についても、事後に片岡らの意に沿う内容で専務が書かされたのではないかという指摘もあるが、専務は何も語っていない。

影響

一定の規模を持った東京渡辺銀行が突如休業したことが新聞で伝えられると金融不安が広まり、関東を中心に取り付け騒ぎが起こった。当初は震災手形を多く所有していると目された銀行が取り付けに遭い、次第に関西にも飛び火した。1927年(昭和2年)3月19日には中井銀行が休業すると[7]同年3月22日には左右田銀行・八十四銀行・中沢銀行・村井銀行も帳簿整理を理由として2週間の休業を宣言した[8]。これに対し日銀が3月21日より非常貸出を実施して沈静化に勤めた。一方で、野党側は片岡の責任を問い、国会は紛糾して乱闘騒ぎにまで発展するが、震災手形関係二法自体は「台湾銀行の整理」[注 29]という付帯決議をつけて3月23日に貴族院で可決され事態は沈静化した。そして26日に帝国議会は閉会した。


注釈

  1. ^ こと、士族は商いを蔑視し金勘定をさげすみ、金融に関する知識が乏しいままに銀行経営に携わる例も多かった。
  2. ^ 1890年制定の銀行条例では「第五条 一人又は一会社に対し資本金高の十分の一を超過する金額を貸付又は割引の為に使用することを得ず」と規定されていたが、銀行の強い反対を受けて1895年に撤廃された。
  3. ^ 1914年には約11億円の債務国だったが、1920年には27.7億円以上の対外債権を有する債権国に転換した。
  4. ^ 開戦した1914年の保有正貨は約3億4,000万円だったが、1918年の終戦時には約15億9,000万円となった。
  5. ^ のちの分析では、1920年の大反動が真の戦後不況と考えられている。
  6. ^ 空母鳳翔の改良型。後に第二次世界大戦で活躍した翔鶴とは異なる。
  7. ^ 英国・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガル。
  8. ^ 八八艦隊計画に基づき既に竣工した長門陸奥に続いて、戦艦加賀・土佐、巡洋戦艦天城・赤城・愛宕・高雄、空母翔鶴が建造中であり、戦艦紀伊・尾張の建造命令が発令され起工直前で造船業界は活況を呈していたが、空母に転用される天城・赤城を除き全て中止となった。他にも巡洋艦駆逐艦潜水艦をはじめとする補助艦艇も多くが建造中ないし計画中であったがワシントン海軍軍縮条約を受けて削減されている。
  9. ^ 救援物資を名目として特定物品の輸入関税が免除されたため。
  10. ^ 下関条約で定められた賠償額は銀2億両だが、これに遼東半島返還の報償銀3000万両他を合わせて銀2億3150万両に相当するソブリン金貨3800万ポンド余を在外正貨として受け取った。
  11. ^ 1871年に新貨条例が制定されて以降、日本は制度上は金1.5g=1円とする金本位制であった。しかし金準備金が乏しく金本位制が機能しておらず、本来貿易用であった銀貨が巷間に流通して実質的に銀本位制となり、政府もこれを追認して兌換銀券を発行するに至った。その後26年間の間に国際的銀価格の下落や、国内のインフレが進行して円の価値が金に対しておよそ半減しており、1897年の貨幣法制定時には平価を半分の金0.75g=1円に切り下げた。
  12. ^ 具体的には米国が9月10日に金兌換と輸出停止を発表した翌々日の12日に日本も大蔵省令28号「金貨幣又ハ金地金輸出取締ニ関スル件」を出して暫時金輸出を許可制としたが、許可が出ることはなく、実質的に金輸出禁止となった。
  13. ^ 香港の投機家が中心で、「香港筋」と呼ばれた。
  14. ^ とはいえ、戦禍に見舞われて産業が打撃をうけ、また植民地への影響力が低下したイギリスの国力は衰えてポンドの実勢は安くなったのに対して戦前の平価で復帰したため、ポンドの評価が高すぎ、英国の景気は低迷した。
  15. ^ 例えば加藤高明は三菱から政界に転じ、岩崎弥太郎の娘婿である。
  16. ^ 無産政党等。
  17. ^ 1924年の衆議院選挙では全464議席中、憲政会151議席、立憲政友会100議席、革新倶楽部30議席、政友本党116議席であり、護憲三派を合わせて281議席で過半数であったが、憲政会単独では全議席の1/3にも満たない。
  18. ^ 往時は多かれ少なかれ選挙干渉があり、政権を取った与党が総選挙に打って出て党勢を増す挙にでることもしばしばあった。そもそもが1924年の選挙は言わば選挙管理内閣である清浦内閣の下で行われたのであり、憲政会が政権を握った今選挙を打てば充分に有利であるという期待もあった。
  19. ^ 若槻は「金ができない総裁である」と自覚しており、資金を欠いたまま選挙に打って出て失敗したら取り返しがつかないために選挙を避けたという。
  20. ^ 片岡は前任者の早速に敵愾心を抱いており、彼が成し得なかった不良債権の整理と金解禁を自ら成し遂げる事に意を注いだ。震災手形についても期限を更に1年延長する弥縫策に拠らず震災手形関係二法をもって根本的に解決する道を選んだ。
  21. ^ 東京渡辺銀行、中井銀行、中沢銀行、村井銀行の4行。
  22. ^ a b 特定政商としては、具体的に鈴木商店を念頭においていたと言われる。
  23. ^ 合意文書の中に盛り込まれた「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」が若槻内閣の退陣と立憲政友会への禅譲を表していると言われる。
  24. ^ 大日本帝国憲法第71條では会期中に予算案の成立を見なかった場合には、前年の予算と同額で執行することと定められていた。これは予算の硬直化に繋がり、殊に積極財政を志向する立憲政友会にとっては、次に政権を獲得した際に不自由な政権運営を強いられることから受け容れ難く、予算案を通すために妥協を迫られた。
  25. ^ 法案上程の4〜5日前と言われる。
  26. ^ 憲本提携がなれば270議席弱の新政党となり大命降下を受けるに相応しい党勢となる。そもそも、政友本党は立憲政友会よりも議席数が多い。
  27. ^ 先の三党首会談では立憲政友会に政権を譲ると合意していたにもかかわらずこのような策を弄するのは立憲政友会にとって許しがたい行為と映った。一方で憲政会側は禅譲の合意などしていないとシラをきった。
  28. ^ 具体的には「喜色満面であった」というが、これを伝えたのは大蔵官吏の一人であり、他には類似の伝聞はないと言われる。
  29. ^ 政府が台銀整理委員会を設けて台銀の経営状況を調査し、その経営基盤を盤石にするべく必要な法律を制定して処理する。
  30. ^ 俗に言う "Too big, to fail." 大きすぎて潰せない
  31. ^ 借り換え・ロールオーバーをせず、短期融資の期限が来たものから着々と債権を回収する。
  32. ^ 緊急時に財政上の必要な処分を行う勅令を発し、爾後帝国議会で承認する憲法規定に基づき、政府が2億円の補償をつけることで日銀に特融を行わせる勅令の渙発を求めた。
  33. ^ 憲法70条の解釈として「本条文は天災事変に際しての規定であり、今回は緊急の事態に当らず、臨時議会を召集して法律を制定して対応すべき」との理由を示した。
  34. ^ 討議の中で「コール市場」の語に接して「石炭」の事かと問うた者もいる。
  35. ^ 枢密顧問官の長老格であった伊東巳代治は伊藤博文に付き従って洋行し、帰国後は憲法制定に参画するなど伊藤との縁が深く、その伊藤が結党した立憲政友会に対しても一時期は党籍を置くなど親政友会の立場にあった。こうした事情から、枢密顧問官は政友会に親近感を抱いていた。一方の憲政会は伊藤と対立していた大隈重信の流れを汲む党派であり、これに嫌悪感を抱いていた事も背景にある。
  36. ^ 枢密院と内閣が対立した場合には必ずしも内閣が辞職をする必要はない。しかし、若槻はもはや混乱収拾の手立てを見出せないとして辞職を選択した。
  37. ^ 国会閉会中の緊急事態に際して天皇は法律に代えて勅令を発し、爾後議会で承認する。
  38. ^ 「憲法八条一項ニヨル私法上ノ支払延期及ビ手形ノ保存行為ノ期間延長ニ関スル緊急勅令」4月22日から5月12日までの3週間、預金の引き出しを500円に制限する。
  39. ^ 往時は週休2日制ではなく、土曜日も半ドンではあるが営業日であった。
  40. ^ 乙二百円券。片面のみの印刷に留めて裏が白いところから俗に「ウラシロ」と呼ばれた。一部は実際に預金者に支払われたが、裏面の印刷がなく作りも粗悪であったことから市中で行使しようとしたところ贋札と疑われ、加えて当該銀行券の発行が警察当局に周知されていなかったことから贋札行使の罪で逮捕された事例も伝えられる。この銀行券は事後に日本銀行が急速に回収したため、現在では現存数が非常に少なく、収集家の間では非常に高値で取引されるほどである。なお、同時に裏が白い急造の甲五十円券も刷られたがこちらは使用されなかった。
  41. ^ 往時流通していた最高額面の紙幣は百円券であり、それを上回る額面の紙幣を急遽発行した。尚、二百円券としては関東大震災後の混乱に対応して甲二百円券の発行が準備されたが、これは実際には発行されなかった。
  42. ^ 丙二百円券。裏に赤の紋様が刷られ、俗に「ウラアカ」と呼ばれた。これは預金者に渡らずにそのまま回収、将来の緊急事態に備えて日本銀行に保管され、太平洋戦争終戦後の昭和20年8月16日以後に使用に供された。

出典

  1. ^ 破綻せぬ銀行を破綻したと声明 片岡蔵相口をすべらす 大阪毎日新聞 1927.3.15(昭和2)
  2. ^ 『昭和初年の金融システム危機 -その構造と対応―』伊藤正直
  3. ^ 震災手形による悪化
  4. ^ 武田晴人『現代日本経済史 7』。
  5. ^ a b c d e 『失言恐慌 ドキュメント東京渡辺銀行の崩壊』
  6. ^ 『昭和金融恐慌史』
  7. ^ 中井銀行も休業、渡辺銀行破綻の余波『東京朝日新聞』昭和2年3月19日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p97 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  8. ^ 今度は村井銀行が休業『中外商業新報』昭和2年3月22日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p98-99)
  9. ^ 神戸の六十五銀行も休業発表『大阪毎日新聞』昭和2年4月9日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p99)
  10. ^ 大阪の近江銀行も『大阪毎日新聞』昭和2年4月19日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p99)






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