小林多喜二
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再評価
小林多喜二シンポジウム
生誕100周年を迎えた2003年以来、白樺文学館多喜二ライブラリー主催「小林多喜二国際シンポジウム」が2年連続で開催され、2005年秋には、中華人民共和国河北省の河北大学で「第1回多喜二国際シンポジウム」が、中国各地および日本をはじめ中国国外から研究者約200名を集め開催された。その記録は、白樺文学館多喜二ライブラリー編 / 張如意監修『いま中国によみがえる小林多喜二の文学-中国小林多喜二国際シンポジウム論文集』(東銀座出版社、2006年2月。ISBN 4-89469-095-0)に収められている。
映画・ドキュメンタリー作品
- 映画「時代(とき)を撃て・多喜二」 - 生誕100年・死後70年を記念して、「時代を撃て・多喜二」製作委員会によって製作された記録映画。日本各地で巡回上映が行われた。脚本・監督は 池田博穂。
- TV番組「小樽商科大学創立100周年記念 ヒューマンドキュメンタリーいのちの記憶 -小林多喜二・二十九年の人生」(HBCテレビ製作) - 2008年5月31日放送、同年11月17日再放送。
- 母 小林多喜二の母の物語 - 母 (三浦綾子の小説)の映画化作品。2017年公開。
- 映画「小林多喜二」(1974年、多喜二プロ) - 監督今井正。
『蟹工船』ブーム
若い世代における非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景のもとに、2008年には『蟹工船』が再評価され、新潮文庫の『蟹工船・党生活者』が50万部以上のベストセラーになった。また、2009年にSABU監督によって映画化された。
小林多喜二祭
毎年、命日の2月20日に小樽市など全国で開催されている。
注釈
- ^ 戸籍上の日付。なお、従来いわれてきた『10月13日』は、1903年12月1日の旧暦での日付にあたる。
- ^ 小林家は元々は地元の大地主だったが、伯父の事業失敗により田畑を失って転落した。
- ^ 商業学校在学当時の多喜二は時間を忘れるほど絵画に没頭していたが病死した兄の件と健康面を配慮した伯父の言いつけにより断筆した。
- ^ 1921年小説倶楽部10月号に『老いた体操教師』、国民新聞10月30日付に『スキー』が掲載される。どちらも主人公は多喜二の小学校時代の実在の体育教師がモデルになっており、多喜二のデビュー作とされる。小樽市立小樽文学館が2010年4月21日に発表した内容に依る。
- ^ 2009年6月19日死去。101歳とも、102歳であったとも報じられている[4][5]。
- ^ 2005年夏に小樽市立小樽文学館に寄贈された北海道拓殖銀行の内部資料「行員の賞罰に関する書類」には、1929年11月16日付の発令で「依願解職」(諭旨)と記されている[10]。小林の解雇理由は「左傾思想を抱き、『蟹工船』『一九二八年三月十五日』『不在地主』等の文芸書刊行書中当行名明示等言語道断の所為ありしによる」とされ、「書籍発行銀行攻撃」と欄外に書かれていた[10]。小林への退職金は、規定では1124円14銭であったが、半額の560円に減らされた[10]。
- ^ このデスマスクは1999年に遺族により市立小樽文学館へ寄贈された[1]。
- ^ 多喜二を意識しているという解釈もあるが、阿川弘之は当時直哉の自宅に訪ねてきてプロレタリア主義を押し付けてくる学者や労働運動家に辟易したことを書いたものと推測している。
出典
- ^ a b c d e "小林 多喜二". 20世紀日本人名事典(2004年刊). コトバンクより2022年2月20日閲覧。
- ^ “第3回 蟹工船(小林多喜二著)”. 小説を旅する. 北海道マガジン「カイ」 (2016年7月6日). 2017年3月27日閲覧。
- ^ 『小樽高等商業学校一覧 自大正13年至大正14年』小樽高等商業学校、1925年、p.182
- ^ “小林多喜二の永遠の恋人・タキさん、101歳で死去 作家人生に大きな影響”. 秋田魁新報 (秋田魁新報社): p. 29. (2009年12月11日)
- ^ “多喜二の恋人・タキさん、6月に死去102歳”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2009年12月12日). オリジナルの2009年12月15日時点におけるアーカイブ。 2009年12月12日閲覧。
- ^ 歴史秘話ヒストリア「「たった一人のあなたへ~“蟹工船”小林多喜二のメッセージ~」、NHK、2010年2月24日放送[出典無効]
- ^ 浦西和彦「葉山嘉樹宛小林多喜二島木健作未発表書簡」『國文學』、関西大学国文学会、1968年、2023年4月19日閲覧。
- ^ “海上生活者新聞”. 国立国会図書館. 2022年9月18日閲覧。
- ^ 文芸家協会編『文芸年鑑 昭和5年版』新潮社、1930年、p.237
- ^ a b c d “多喜二「退職」実は「解職」、理由に「左傾思想抱き」”. 読売新聞 (2005年10月27日). 2005年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月23日閲覧。
- ^ 手塚 1983, p. 300.
- ^ a b 『東京朝日新聞』1933年2月22日付夕刊 2面
- ^ 『東京日日新聞』1933年2月22日付夕刊 2面
- ^ a b c 東京12チャンネル社会教養部 編『新篇 私の昭和史Ⅰ 暗い夜の記憶』(株)學藝書林、1974年4月5日、219頁。
- ^ 倉田稔「多喜二の死後」『商学討究』第53巻第2/3号、小樽商科大学、2002年12月、21-45頁、CRID 1050001201669603840、hdl:10252/464、ISSN 0474-8638。
- ^ “小林多喜二を虐殺した特高は罪に問われなかったの?”. しんぶん赤旗. 2023年9月9日閲覧。
- ^ 『小林多喜二の拷問死、遺族が告訴試みる弁護士供述記録』中村尚徳 2019年9月23日
- ^ a b 「帝大、慶大、慈大も解剖を拒絶 お通夜参会者は検束」『朝日新聞』、1933年2月23日、朝刊、11面。
- ^ 宇佐美承『さよなら日本 絵本作家八島太郎と光子の亡命』晶文社、1981年、pp.130 - 131
- ^ 野本一平『八島太郎 - 日米のはざまに生きた画家』創風社、2008年、pp.77-78
- ^ 千田 1975.
- ^ 物々しい警戒、近親者だけの葬儀『東京朝日新聞』昭和8年2月24日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p222 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 労農大衆葬は不許可となる『東京朝日新聞』昭和8年3月14日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p223)
- ^ 多喜二の「沼尻村」上演計画も弾圧『東京朝日新聞』昭和8年3月16日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p223)
- ^ 小林多喜二『蟹工船・党生活者』(新潮文庫)「解説」(蔵原惟人)
- ^ 『東京朝日新聞』1933年2月23日付朝刊 10面
- ^ a b “年譜”. 有限会社ゆとり・多喜二ライブラリー. 2018年1月22日閲覧。
- ^ 阿川弘之『志賀直哉 上』新潮社〈新潮文庫〉、1997年、468-471頁。ISBN 4101110158。
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