宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件 実刑判決

宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 13:17 UTC 版)

実刑判決

1942年(昭和17年)、軍機保護法違反の罪に当たるとして宮澤とハロルドに懲役15年、ポーリンに懲役12年の有罪判決が言い渡された[7]。宮澤は旅行中に「探知」した軍事機密をレーン夫妻に「漏洩」し、夫妻はその機密を駐日アメリカ大使館に伝えたとされた[7]。しかし実際のところ、宮澤が夫妻に語った内容は旅先での土産話に過ぎないと思われ、罪状の中で機密の漏洩として取り上げられた根室第一飛行場の存在も、公知の事実であった[1]

3人は潔白を訴えて大審院に上告するが、いずれも棄却されて実刑が確定した[14][4]。この3人が課せられた刑は、類似の事例と比較しても特段に重いものであった[4][15]

服役と釈放

レーン夫妻は、しばらく北海道内で服役した[15]。すでに父ヘンリーは1942年(昭和17年)2月に死去しており、双子の姉妹は同年6月の第1次交換船でアメリカへと送還された[11]。夫妻も交換船に乗るべく横浜に移送されたものの、突然変更されて札幌に戻された[1]。ふたりの帰国は、1943年(昭和18年)9月の第2次交換船まで待たねばならなかった[15]。懲役期間の途中で解放された公的な理由は明らかではないが、アメリカ側で拘束された日本人スパイの身柄との交換だったのではないかと言われている[15]

一方、宮澤は網走刑務所で服役した[15]。蟹錠や逆さ吊りなどの拷問を受け、弁護士から妥協を勧められても、宮澤は決してスパイの嫌疑を受け入れようとはしなかった[11]。母親は、息子が逮捕された理由を北大総長(当時)の今裕に問い合わせたが、協力を拒否された[16]。母親は毎月3分間の面会のために網走へと通い、妹の美江子も同行することがあった[11]

1945年(昭和20年)6月、宮澤は宮城刑務所へと移監される[15]。終戦後の同年10月[11]、GHQからの指令を受けた日本政府は、思想犯として収容されていた宮澤を釈放した[15]。宮澤は1945年12月8日付で北大に復学願を提出し[17]、さらにアメリカへの留学も考えていた[15]。しかし彼の体は結核に侵されており、一連の事件の真相を明らかにするという望みも果たせないまま[15]1947年(昭和22年)2月22日、27歳で没した[11]

レーン夫妻の再招聘

1949年(昭和24年)、中谷宇吉郎はアメリカ出張の折にレーン夫妻宅に宿泊し、ふたりが札幌への帰還を強く願っていることを聞かされた[18]

獄中のつらい生活のことは、これは天災だから仕方がない、しかし友情の結びつきのほうがもつと強い — 中谷宇吉郎『花水木』文芸春秋社、1950年、p.191

北大では夫妻の再招聘の声が挙がり、1951年(昭和26年)にハロルドは北大教養部の英語教師となり、続いてポーリンも北海道教育大学の教師として着任した[18]。夫妻が訪日して真っ先に行ったことは宮澤家への訪問であったが、宮澤の母は夫妻を事件の元凶とみなしており、花束の受け取りを拒否してしまう[11]

1960年(昭和35年)、「英語教育の発展と国際平和・日米友好関係の促進への貢献」を理由として[19]、日本政府はハロルドに勲五等瑞宝章を授与した[11]

ハロルドは1963年(昭和38年)に、ポーリンは1966年(昭和41年)に相次いで死去し、ふたりは札幌の円山の地に葬られた[20]

なおハロルドの死後、彼の蔵書をポーリンが北大に寄贈しており、北海道大学附属図書館の北図書館の一角に「レーン文庫コーナー」として遺されている[18]。また、ふたりの退官後の生活支援の寄付金を基にして、1966年(昭和41年)にレーン記念奨学金が創設された[20]


注釈

  1. ^ 1942年3月31日付けで退職となっている[12]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 北大PG 2019, p. 48.
  2. ^ 『官報』第3983号、昭和15年4月18日、p.867.NDLJP:2960481/16
  3. ^ 『官報』第3982号、昭和15年4月17日、p.804.NDLJP:2960480/17
  4. ^ a b c d e f g h 北大PG 2019, p. 47.
  5. ^ 『北海道帝国大学一覧 自大正9年至大正11年』北海道帝国大学、1922年4月1日、215頁。NDLJP:940224/115 
  6. ^ a b c d 北大ACM 2019, p. 121.
  7. ^ a b c d 北大ACM 2019, p. 122.
  8. ^ 『北海道帝国大学一覧 昭和16年』北海道帝国大学、1941年11月20日、302頁。NDLJP:1460484/159 
  9. ^ a b 北大ACM 2019, p. 118.
  10. ^ 北大ACM 2019, pp. 118–120.
  11. ^ a b c d e f g h i j k 北大PG 2019, p. 49.
  12. ^ 『北海道帝国大学一覧 昭和17年』北海道帝国大学、1942年12月20日、351頁。NDLJP:1461414/183 
  13. ^ a b c d 北大ACM 2019, p. 120.
  14. ^ 法曹会 編『大審院刑事判例集』 22巻、11号、法曹会、1943年、177-187頁。NDLJP:2627870/156 
  15. ^ a b c d e f g h i 北大ACM 2019, p. 124.
  16. ^ a b c 北大ACM 2019, p. 126.
  17. ^ 内山 2021b.
  18. ^ a b c 北大ACM 2019, p. 125.
  19. ^ 北大ACM 2019, p. 129.
  20. ^ a b c d e f 北大PG 2019, p. 50.
  21. ^ a b c 北大ACM 2019, p. 128.
  22. ^ 北大ACM 2019, pp. 125–126.
  23. ^ a b c d 内山 2021a.





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