天理教
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天理教(てんりきょう)は、中山みきを開祖とする日本発祥の宗教。江戸時代後半に成立した宗教の一つ。かつては教派神道の一派とされていたが、本来は神道とは別の宗教であり、仏教の影響もみられる。一般的には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部及び一般教会)を指すが、広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、その教義を信仰する単立の宗教法人もある。
注釈
- ^ 慶應元年(1865年)11月の「御請書」での「天龍王命」、慶應3年(1867年)7月の「裁許状」での「天輪王明神」などの例もあったが、明治以降は主に「天輪王命」が使われ、更に明治13年(1880年)教祖の息子中山秀司が金剛山地福寺門下で転輪王講社を結成してからは「転輪王命」の例も見られ、主に「てんりんおうのみこと」と読める神名の文献が多数を占めているが、教会設置公認運動の中で明治18年(1885年)に神道天理教会創立事務所が出した改正諭告で「天輪王命」は神名では無いので古号に復帰して「天理大神」とするようにしている。[3]なお「神道本局の許可を得るため天理王命に改称した」というのは2代目真柱の中山正善がそのような記録は中山家に残っていないとしている[4]。明治19年(1886年)12月に神道本局に提出した書類では「天理王命」となっていたが、明治29年(1896年)内務省から出された天理教弾圧を目的とした秘密訓令に対する改革の一環として「天理大神」と改称した。しかし内部では天理王命の表記を用いるなど、神名を使い分けていた。[5]戦後は天理教教典等で「天理王命」と改めて規定している。
- ^ 中山美伎、美支とも。
- ^ この他にも「ちば」は「よろづたすけ」の源泉や、天理王命の神名が授かったところであるという意味もあるとされている[2]。
- ^ 傘下の一般教会での「おつとめ」の時間や「月次祭」の日付はそれぞれ教会ごとで異なる。
- ^ 「朝夕のつとめ」は「かぐらづとめ」の「座りづとめ」の部分と同様であり、実際には、「あしきをはろうてたすけたまえ」で始まる詞句を21回、「ちょいとはなし」で始まる詞句を1回、「あしきをはろうてたすけせきこむ」で始まる詞句を3回ずつ3度に分けて唱えている。
- ^ 「ぢば」は「地場」、「いんねん」は「因縁」、「おふでさき」は「御筆先」、「みかぐらうた」は「神楽歌」と言った語源があるものの、現在では教団内では全てかなで表記される。
- ^ 通常、表側(右側)の襟に所属の本部直属教会名を、下側(左側)の襟に所属分教会・布教所名などを入れる。ただし修養科生が着るハッピについては、表側の襟に「修養科生」、下側の襟に大教会名を書く。
- ^ 「どろうみ」の中に混じっていた「うを」(魚)が男の雛形(原型)、「み」(蛇)が女の雛形とされ、夫婦の雛形とし、男雛形には「しやち」(鯱)を仕込み、女雛形には「かめ」(亀)を仕込んでそれぞれ男女を創造したという教え。
- ^ 天理教では『人だすけ』と表記。
- ^ これに関しては教団内でも教典や教祖・みきのことばの解釈の問題から異論が存在し、また同時にタブー視されている面もある[28]。実際に宗教法人天理教の傘下から離れ、活動している団体もある。
- ^ 普段から朝夕に定時定例に行われる「おつとめ」はこの「てをどり」の「座りづとめ」の部分である。
- ^ 中野市兵衛の天理教との関わりは、秀司の足の病の祈祷のために天保8年(1837年)10月に寄加持を行ったのがはじめてで、その後は秀司の症状が悪化するたびに中山家で寄加持が行われていた(改訂『天理教事典』, p. 39,146,147,690-695,810)。
- ^ 「月日」とは天理教主神・天理王命をあらわすことばであり、天理教では人間にとって身近な存在である月日のように親しみを感じやすくさせるために「月日」と呼ぶとされる(改訂『天理教事典』, p. 549)。
- ^ 現在の天理教ではこのことを布教活動である「にを(お)いがけ」の開始としているが、後に教団が信者から献金を受けるために事実が歪曲化、脚色されたという説が存在している。[37]天理教の講師であった八島秀雄ほか、フリーライターの早川和広、宗教学者の村上重良らも史実的根拠が乏しいとして、こかんが浪速へ向かったのは長男・秀司の米相場失敗による借金返済のためであるという説を採用している。
- ^ 「扇のさずけ」はみき死後に飯降伊蔵による「御指図」で禁じられている。
- ^ 認可は明治維新後に無効となっている。
- ^ 教団ではこの一連の活動を「一派独立運動」と呼称している。
- ^ 上部団体の包括下にある教会にあっては代表者は教長や会長を称することはできたが、管長は独立した神道教派・仏教宗派でなければ置くことはできなかった[39]。また教派神道の管長は勅任官であり、官吏であった。
- ^ 特に第7号には「身を軍籍に奉じて、国家の為に赴く者にありては、挺身武人の亀鑑を垂れ、銃後にありては、身を持すること険素に、勇躍以て奉公の事に従い、率先ひのきしんに参じて、邦家の緩急に応え、教祖様垂示の大精神を発揮して、敢然時艱を克服する為、一手一つに、感奮興起すべき至旬なりと確信す」と、かなり強い語調で各信者への翼賛的協力が指示されている。
- ^ 当時、中山みき・78歳。示された場所は、立教の元一日に初めて教祖に神がお下がりになった場所と一致したと言われている。
- ^ 天理教では「現身をかくされる」と称する。
- ^ この祭典から、参拝者のみかぐらうた唱和が許されている。
- ^ 午後2時は教祖・中山みきが死去した時刻で、サイレンがなると信者・参拝者たちは手を止めて黙祷する。なお、同年7月7日からサイレンが現在使用されている「みかぐらうた」のメロディーとなっている(改訂『天理教事典』, p. 1028)。
- ^ 善司の実弟・中田善亮の長男であり、2013年4月に中山善司夫妻と養子縁組している。
- ^ 1893年(明治26年)2月10日付けで一般教会は「分教会」「支教会」「出張所」「布教事務取扱所」の4つとされたが、一派独立時の明治41年(1908年)11月27日に制定された天理教教規により「大教会」「教会(1927年から中教会)」「分教会」「支教会」「宣教所」の5つに規定された。その後1941年(昭和16年)3月31日の教規改正により「大教会」「分教会」の二段階制度に改められた。[49]
- ^ ただし、申し込み先の所属の大教会の独自の募集条件を課す場合があり、例えば、ようぼくになっていることが条件になっている場合や募集月を3か月ごとにする場合もある。
- ^ 京城大教会など、当時の名称のまま日本国内に移転した教会が多い。
- ^ 論文内では『稿本天理教教祖伝』の編纂当初では「ひながた」について、当時の『天理教教典』に準じてみき誕生からの90年と、立教後の50年の二つの「ひながた」の見方があったものの、第五稿以降は後者の意味に限定されていることも指摘している[67]。
- ^ おなじく櫟本分署跡保存会の事務局長川本しづ子が教会長をつとめる天理教本常一分教会も、審判会も行なわずに罷免して裁判になっている。その後、和解し現在は天理教から独立している。
- ^ ただし、植田は八島の考察を「教祖の天啓やひながたを人間的なレベルの思想や行動と受け取り、霊魂や転生を否定し、心身を唯物的に認識していることには同意できない」としている(天理教みさとブログ<原典からの出発>「5/25 月例会報告」)。
- ^ 『改訂天理教事典』の「中山こかん」の説明には、嘉永6年(1853年)に「天理王命」の神名を伝えに行った、とあるが、「てんりんおうのみこと」の説明では、32年後の明治18年の公認運動の頃から「天理王命」の字に一定した、との記述がある( & 改訂『天理教事典』, p. 662)。
- ^ この本は天理教の機関紙『天理時報』に1950年10月29日から1957年9月8日までの7年間、338 回に渡って連載された長編伝記小説。
- ^ かつては金光教の名前に由来する岡山県金光町が存在したが、平成の大合併により消滅(現:浅口市)している。
出典
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- ^ ||| 天理市ホームページ ||| 財政課 平成25年度予算編成方針
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- ^ 松下幸之助 vol.3 水道哲学の原点となった 天理教との出会い - 現代ビジネス
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