国鉄DD54形ディーゼル機関車
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運用
1966年に先行試作車であるDD54 1 - 3の3両が福知山機関区(現・福知山電車区)に新製配置された。先行試作車は試運転や性能試験を経て主に山陰本線の京都 - 福知山間と福知山線の普通列車をC57形に代わって牽引する運用に投入、1967年11月には米子鉄道管理局管内へ初の試運転を行い、以後1968年から量産車が順次落成し、運用区間も急行「おき」や貨物列車の牽引で山陰本線米子以東に拡大、1969年以降も増備は続き1971年までに全40両が出揃い、DD54 1 - DD54 29・DD54 38 - DD54 40の32両が福知山機関区に、DD54 30 - DD54 37の8両が米子機関区[注 8](現・後藤総合車両所)に、それぞれ配置された。
本形式はその新製時の計画通り、当時山陰本線・播但線・福知山線などの列車牽引運用に用いられていたC57形・C58形等の蒸気機関車を置換え、周辺の舞鶴線・伯備線(新見以北)・大社線にも入線し1972年末には一部の列車を除き山陰地区東部の全面的なディーゼル化を達成するなど当該路線群における無煙化を促進した[4]。
1968年10月6日にはDD54 1(本務機)・DD54 3(前補機)の2両が、福井国体開催に合わせて運行されたお召し列車の牽引に供された。重連運用[5]された理由は、DD54がトラブルで動かなくなる可能性を想定したためと一部では指摘されている[6]が、本形式に限らず1970年代までのディーゼル機関車牽引によるお召し列車運転に際しては万全を期すためその多くが重連運用であった[7]。
1969年末より、重大なトラブルを招いていた推進軸の交換を進める。これ以降、初期のような致命的トラブルは発生しなくなっていった。
1972年3月15日からは京都 - 浜田間で、米子機関区配置車6両による特急「出雲」牽引が開始された。しかし、この頃からエンジン本体や液体変速機側での故障が頻発し、本形式の牽引する列車をより旧式のディーゼル機関車であるDF50形や当時残存していたC57形蒸気機関車が救援する、といった事態すら発生するようになっていた。「出雲」牽引機6両のうち5両は、おおむね良好な稼働状況であったが、他の仕業との関係で[注 9]「出雲」への充当は1年半で終了し、1973年秋からは同じく米子機関区が担当していた夜行急行「だいせん」の運用共々DD51形へ置き換えが実施され、米子配置車も1974年に全車福知山機関区へ転属となった。
故障・事故
本形式に搭載されたDMP86Zは、6バルブのDOHCによる吸排気を行う、精緻な設計と構造を有していた。乾燥重量 7,740 kg、出力あたり重量は4.25 kg/PSで、国産DML61Z型の5.10 kg/PSよりも優れており、出力と耐久性には問題がないなど極めて優れた設計のエンジンであった。また、液体式変速機は常時歯車噛み合わせ式で直結段を持たないなど、当時、国鉄がDD13で採用していたリスホルム・スミス型の変直式、DD51で採用していたフォイト社開発の充排油式とは異なる1つのコンバーターと機械式変速機を組み合わせた、自動車用ATに近い機構であった。全般的に西ドイツの工業製品らしい、精緻な製品であった。
もっとも、試作車のDD91形がエンジン・変速機共に西ドイツ製の純正品を搭載していたのとは異なり、本形式ではそれらをライセンス生産契約に基づき三菱重工業が製造した日本製同等品が搭載されており、1次車では、3両のうち2両で冷却水がシリンダ内に漏れるトラブルが発生した。さらにDE10形などと台車を共通設計とした結果、最終減速機や推進軸周りの設計がオリジナルのDD91形とは異なったものとなっていた。これらの問題が発生した経緯は不明である。
機関は概ね好調だったものの、後述するように、本形式の重大故障は、ライセンス生産された液体変速機や、DD91から変更された台車まわりなどに集中していた。西ドイツではMD870系列の機関はB-B(V160型)、C-C(V320型)の軸配置と組み合わせて使用されたが、本形式は軸重や横圧低減の理由で、B-1-Bの変則的な軸配置とならざるを得なかった。車体内部の1エンド側にエンジンと変速機、2エンド側に蒸気発生装置(SG)を搭載しており、車体前後にある2軸駆動の動力台車を変速機からの推進軸(プロペラシャフト)で駆動させる方式であったが、2エンド側の動力台車へは、推進軸が中間の1軸台車の上を超えて、さらに継手を介して台車に伸びるという、非対称の構造になっている。なお、DD54 2の事故では、1エンド側の継手が破損し、短い側の推進軸が落下した。
西ドイツ本国では、K184U変速機はマイバッハ社V12 MD655 (1,500 hp)、MD870 (1,700 hp) と組み合わせて使用されていた。K184Uの定格入力は1,660 PSであるが、DMP86Zは短時間出力は2,200 PSであり、組み合わせに無理があったと考えられる。国鉄設計事務所も把握していたと考えられ、DD544からの二次車にはタコメーターを追加して、規定以上の出力監視に配慮した。くわえて、DD91は正規品の機関変速機であったが、上述のとおり、DD54はライセンス生産品であった。
本形式は、変速機周りの構造が比較的単純であったDD51形などと比較して複雑で整備に非常に手間がかかるほか、故障となると配置車両基地の保守掛の手に負えず、三菱側保守担当者が常駐する鷹取工場へ回送して修繕を行う必要があった[注 10]。また設計・構造についての不明点を西ドイツのメーカー本社へ問い合わせるなどの際にライセンス契約締結時に仲介を行った対応問題や、またメーカー本社の回答も遅れて修繕が進展しないといった悪循環も発生した。
この結果、国鉄の本形式に対する信頼は完全に失われた。
以下で事故・故障のうち多発した症例について解説する。
- 推進軸破損による脱線事故
- 1968年6月28日、山陰本線鳥取 - 湖山間の徳吉踏切付近(現在は廃止)で、急行「おき」を牽引中だったDD54 2の1エンドの台車側のユニバーサルジョイントが突如破損し落下。かろうじて繋がっていた推進軸も湖山駅21番分岐器に接触して落下し、線路にほぼ垂直に突き刺さって同車が脱線転覆、続く客車6両も脱線する事故(いわゆる『棒高跳び事故』)を起こした。事故車のDD54 2は修復され後に復帰している。
- 翌1969年11月にも山陰本線浜坂 - 久谷間の勾配力行中などのDD54 11 ・ DD54 14が推進軸が落下、床下から出火するなどエンジンの高出力に耐え切れなくなった推進軸に起因する故障が多発した。
- 頻発する事故について、新聞紙面では「DD54型 また事故」とする見出しで報道されるようになった[8]。
- 直接の原因は三菱側の強度計算の誤りによる設計ミスであり、対策として推進軸の強化や脱落防止が施工され解決し、1970年以降推進軸のトラブルによる重大事故は発生していない。ただし経年変化も影響して、今度は変速機にトラブルが多発するようになった。
- 液体変速機の故障
- 本形式搭載のDW5液体変速機は原形となったK184Uの設計を踏襲し、シフトアップ・ダウン時にエンジンの回転数とトルクコンバータの回転数を同調させて接続する凝った構造のため爪クラッチをギヤ回転のまま接続させた時のショック緩和用に衝撃緩和装置まで装備するなど従来の国産機にはみられない非常に複雑精緻かつ巧妙な構造・機構を採用していた。本形式の運用においては日本国鉄の保守能力を超えた装置全体でのギヤ欠け・コンバータ故障・クラッチ損傷が多発したという意見がある。しかし、国鉄は製品としての液体変速機を三菱重工業から購入したのであり、DW5で頻発した歯車の欠けやクラッチなどの不具合は、もはや製品とは呼べない代物であった。
- 冷却ファンの故障
- DD54の冷却ファンは、温度感知部のワックス[注 11] の膨張度合いで回転数を制御する静圧ファンを採用していた。この部品の一部はDD51用と共通設計であった。
注釈
- ^ DD54形製造期間中には三原製作所ではED75・ED76・ED77・EF71形やEF30形・EF81形、それにDD51形といった国鉄機関車各形式を並行して生産している。
- ^ これは背の高いDMP86Zを収めるためでもあった。
- ^ DD54 12は公式側排障器にSGホース掛けを装備する。
- ^ DOHC6バルブ、バンク角60°V型16気筒、ボア185 mm×ストローク200 mm、排気量85.973 L、最大出力2000 hp / 1600 rpm
- ^ 工事は1970年1月まで集中的に実施され、一時的に機関車不足を招いたため、代機としてはC57形やD51形を他区から借り入れて蒸気機関車による運用が復活する事になった。
- ^ 最高速度は95 km/hのため同時期のEF65形500番台(P形・F形)などのような電磁自動空気ブレーキ指令用ジャンパ連結器設置や応速度編成増圧ブレーキ装置搭載は未施工。
- ^ 冬期の低温対策としてDD54 9以降では廃止している。
- ^ DD54 16・17も当初の配置は米子であった。
- ^ 「出雲」牽引指定機についても、急行「だいせん」やその他の一般列車も牽引することがあった。
- ^ そのため、当初米子機関区に配置された後期製作車8両の内、先行して1972年に転属となったDD54 30以外の7両については、故障頻発が深刻化した1974年4月25日付で鷹取工場に近い福知山機関区へ転属の措置がとられている。
- ^ 自動車を始めとする水冷エンジンのサーモスタットや潤滑系のバルブに用いられるワックスを充填したサーモエレメントの伸縮動作によるサーモアクチュエーターの一種。
- ^ DD54 1 - DD54 9・DD54 13・DD54 14・DD54 35
- ^ DD54 15 - DD54 18・DD54 21・DD54 26・DD54 34・DD54 36 - DD54 38
- ^ DD54 10・DD54 19・DD54 20・DD54 22・DD54 23・DD54 25・DD54 27・DD54 28・DD54 39・DD54 40
- ^ DD54 11・DD54 24・DD54 29・DD54 31
- ^ DD54 12・DD54 30・DD54 32・DD54 33
- ^ 長らく留置されていたのは、労働組合の抗議活動によって『欠陥機関車の証拠』として残すため、解体を阻止され福知山機関区に留置されたとする説も存在する。
- ^ 最初に製作され、結果的に本形式で最も長い期間使用されたDD54 1は、1966年6月24日新製配置、1976年6月30日廃車で、書類上新製から10年と数日で廃車となっている。
- ^ DD54 35。同車は1971年9月9日に米子機関区へ新製配置され、1974年4月25日に福知山機関区へ転属、1976年6月30日に変速機系の致命的な故障が原因で修理不能としてトップナンバーを含む初期車11両と共に廃車となっている。
- ^ 特に本形式の導入が開始された1966年当時の国鉄監査委員長が前三菱重工業社長の岡野保次郎であったことから、国鉄内で適切な意志決定がなされないままに総額約30億円におよぶ予算の無駄遣いがなされたのではないか、との指摘・追求が日本共産党の内藤功参議院議員(当時)からなされている。
出典
- ^ ふちい萬麗「DD54の時代考証」プレス・アイゼンバーン『レイル』No.54 P.80 - P.81
- ^ 前里孝「福知山区のDD54改造顛末記」交友社『鉄道ファン』1970年4月号 No.107 P.112
- ^ ふちい萬麗「DD54の時代考証」プレス・アイゼンバーン『レイル』No.54 P.80 - P.83
- ^ 大田裕二「DD54投入と無煙化の足跡」交友社『鉄道ファン』1977年5月号 No.193 P.52 - P.53
- ^ a b c “悲運の機関車DD54が大役を任された日”. 朝日新聞デジタル 2017年12月3日. 2018年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月10日閲覧。
- ^ a b 両丹日日新聞 (2017年7月10日). “悲運の機関車DD54(2) トラブル続きで次々解体”. WEB両丹. 2020年3月29日閲覧。
- ^ 星山一男「お召列車50年の記録」交友社『鉄道ファン』1976年12月号 No.188 折込付表
- ^ DD54型 また事故 推進軸に裂け目『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月19日夕刊 3版 11面
- ^ 麻布学園鉄道研究部「DD54近況」交友社『鉄道ファン』1976年12月号 No.188 P.105 - P.107
- ^ 第87回国会、参議院 交通安全対策特別委員会 5号、昭和54年5月9日
- ^ 両丹日日新聞 (2017年7月8日). “悲運の機関車DD54(1) 故障などトラブル続きで短命に”. WEB両丹. 2020年3月29日閲覧。
- ^ 両丹日日新聞 (2017年7月11日). “悲運の機関車DD54(3) 運用中に部品交換”. WEB両丹. 2020年3月29日閲覧。
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