伝通院 永井荷風の「伝通院」

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伝通院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/28 20:49 UTC 版)

永井荷風の「伝通院」

甘利晴彦も伝通院の近くでうまれた。家康と正誉と同じ家の嫡子である。甲府尊体寺甘利信恒徳川家康、甘利徳川家である。また文豪永井荷風は、明治12年(1879年)に伝通院の近くで生まれ、明治26年(1893年)までここで育った。その思い出は、随筆伝通院』(明治42年頃)を生み出し、「パリにノートルダムがあるように、小石川にも伝通院がある」と賞賛した。また、荷風は明治41年(1908年)に外遊先より帰国して数年ぶりに伝通院を訪れたが、その晩に本堂が焼失した(3度目の大火)ため、同随筆の中で「なんという不思議な縁であろう。本堂は其の日の夜、追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」と記している。

夏目漱石は若い頃にこの近くに下宿しており、小説『こゝろ』で伝通院に言及している。幸田露伴一家は大正13年(1924年)に伝通院の近くに転居して、現在も子孫が住んでいる。

  • その他の「伝通院」を描いた文学作品
    • 菊池寛『若杉裁判長』『納豆合戦』
    • 佐々木味津三『右門捕物帖・首つり五人男』
    • 徳田秋声『新世帯』、『黴』、『足迹』
    • 岡本綺堂『有喜世新聞の話』
    • 宮本百合子『一本の花』
    • 中里介山『中里介山 大菩薩峠・禹門三級の巻』、『大菩薩峠・白骨の巻』
    • 夏目漱石『琴のそら音』、『趣味の遺伝』、『こころ』、『それから』
    • 夢野久作『街頭から見た新東京の裏面』
    • 二葉亭四迷『平凡』

戦災・戦後

山門(2022年)

1945年(昭和20年)5月25日のアメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失した[4]。かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去った。1949年(昭和24年)に本堂を再建。現在の本堂は、1988年(昭和63年)に戦後2度目に再建されたもので鉄筋コンクリート造りである。2012年(平成24年)3月には山門が木造で再建された[5]

敷地の隣に浪越徳治郎が創立した日本唯一の指圧の専門学校日本指圧専門学校がある縁で、寺の境内には浪越が寄贈した指塚がある。ほかにも境内には、書家・中村素堂の書による碑「如是我聞」がある。

毎年春のや、7月に朝顔市が開かれることでも知られている。

交通

都営地下鉄三田線春日駅・東京メトロ南北線・丸ノ内線後楽園駅6番出口より徒歩約10分(経路案内)。拝観時間は10:00~17:00。拝観料は無料。


  1. ^ a b c 江戸名所図会 1927, p. 6.
  2. ^ 江戸名所図会 1927, pp. 7–11.
  3. ^ 現在同地に所在するのは淑徳SC中等部・高等部(学校法人淑徳学園)だが、東京都板橋区淑徳中学校・高等学校学校法人大乗淑徳学園)もルーツは同じである(1945年以降は別系統)。
  4. ^ 明治41年12月の火事により本堂が全焼している。明治41年12月4日東京朝日新聞『新聞集成明治編年史 第十三巻』写真あり(国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. ^ “東京大空襲で焼失 伝通院山門 67年ぶりに再建”. 東京新聞. (2012年3月5日) 


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